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出版社内容情報
デリダの「政治哲学」。「脱構築は正義である」の宣言のもとで、法/権利を越えた正義の観点からナチスによる「最終解決」に極まる法の暴力を批判。またハイデガーやベンヤミンの「破壊」のもつ問題点を抉り出し、それらと脱構築との差異を明確に論じたデリダ近年の主著。
目次
第1部 正義への権利について/法(=権利)から正義へ
第2部 ベンヤミンの個人名
著者等紹介
デリダ,ジャック[デリダ,ジャック][Derrida,Jacques]
1930‐2004年、アルジェリア生まれのユダヤ系哲学者。パリのエコール・ノルマル・シュペリウールで哲学を専攻。同校の哲学教授を経て、社会科学高等研究院教授をつとめる。ロゴス中心主義の脱構築を提唱し、構造主義以降の人文社会科学の広範な領域―文学・芸術理論、言語論、政治・法哲学、歴史学、建築論ほか―に多大な影響をもたらした。1983年にフランス政府派遣の文化使節として来日
堅田研一[カタダケンイチ]
1962年生まれる。早稲田大学大学院法学研究科博士課程(法哲学)満期退学。現在、愛知学院大学法学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
hitotoseno
11
美しい……名著と呼ばれる哲学書は数あれど、ここまで美しい哲学書はかつて読んだことがない。まずデリダは聴衆に向かって、講演に当たり私はフランス語でなく英語で自らを「送り届けねばならない」と述べる。この時点で彼の計略はすでに始まっているのだ。母語でない言葉を話す際そこには齟齬を来す可能性が存在する。それこそ中期デリダの主要概念である「誤配」のリスクを背負わなければいけない。だがデリダはまっすぐに「送り届け」ようと努め続ける。フランス語の「adresser」と英語の「address(講演)」を掛け合わせながら。2016/06/06
madofrapunzel
10
ただいま三回目にして、論考を書いている途中である。個人的には、『法の力』から間もなくして出版された『友愛のポリティクス1・2』をいかにつなげて読めるかが、デリダの政治哲学読解の鍵だと思って、それをしようと思っている。どちらにせよ『法の力』はデリダの作品の中では明晰なほうであり、内容は難しくても読みにくいという事はないという点で、是非、基礎法学の授業などでも取り上げられて欲しい。2014/06/03
NICK
5
特有の言い回しによってやや難解だが、法/権利の暴力性(言語遂行性)を暴き、その暴力の一撃が正義にかなうことの不可能性を説くデリダ流法哲学。法/権利を定めるということはある種の境界を定めることに他ならない。その時、(リーガルな)内部と(イリーガルな)外部を区切る境界線の画定は完全に恣意的であり、正義を志向しながらも正義の普遍性に至ることがない。正義とは不可能なものの経験であり脱構築なのだ、とデリダは言う。彼の言うとおり、それまでのデリダの仕事は確かにテクストの解釈の正当性/法/正義を巡る言説であるのだ。2013/12/31
Hirono
2
法/権利としての正義ではなく、法(言語)のなかの暴力を限りなく小さくしていく不断の脱構築プロセスの果てにあるものとしての正義。この正義は不可能なものの経験である。ベンヤミンとデリダのシンクロ(今村仁司)。2015/12/07
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1
再読。法/権利にはそれ自体正当化しうる起源はなく、構築されたものである以上脱構築可能だ。ただし、そこにある他者への責任/応答可能性、正義に対する/による無限の要求は脱構築不可能である。普遍性と特異性の背反のなか、計算不可能な正義=脱構築は決断を迫り、決断があってこそ、法/権利の計算も可能になる。「その責務によってわれわれは、前もって計算によって立てられていたような、あるいは前もって境界を定められていたような、法/権利のもろもろの基礎事項そのものを考え直し、したがって解釈し直さねばならないのだ」(p74)。2024/08/04