感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
∃.狂茶党
23
詩の言葉と、散文の言葉は異なる。 ものすごく雑に言えば、詩の言葉は独り言であり、ひとつらなりの言葉である。 それに対し散文は、幾つもの言葉が重なり合って出てくる、一つの織物である。 演劇の言葉は基本的に対話なのだと思われるが、演劇についてはこの本の取り上げることではないように思われる。 キャラクターの言葉や、作者の言葉、状況説明の言葉は、それぞれ異なるのみならず、状況によっても異なるし、時に引用したり、異なるスタイルを演じたりもする。2023/11/14
∃.狂茶党
16
言葉の多様性は個人単位であるとともに、社会的なものや、地域的なもの、関係性、時間、感情などによっても変化する。 文字列に意識などはないのだが、意識の数だけ言葉がある。 詩は詩人の言葉であるがゆえにこの多様性から遠くはなれている。 この考えだと、町田康の小説やエッセイはどうなるのだろう。 : 詩人からは異議が突きつけられそうだが、私は詩人ではない。 バフチンの考える散文は理想的な小説のそれで、駄文はふくまれないようだ。 しかし散文は詩人たちの言葉であってはいけないのか。 : 詩とは一つの緊張なのだろう。2022/05/23
武井 康則
14
小説の文体研究の黎明期、韻文の研究を借用したものの成果の上がらない中、バフチンが、ソシュールの影響を受け本書をまとめる。本人はソシュールに批判的だったようだが、場にあった文体の互いの影響という構造的な考え方はソシュールだろう。言語的多様性による管弦楽化という言葉はあるがポリフォニーはまだない。カーニバルという語はでてくるが、論として述べていない。まだ途上という感がある。2022/02/01
ハイザワ
7
小説は他者の声を織り込んだ多声的なものである。そこではあらゆることば(声)が他のことばによって相対化され続ける。笑いや道化、パロディという要素がこうした小説の混沌から誕生するという指摘は、自分の関心とも合致していてとても興味深かった。青木淳悟の小説のことばの層の問題を考えるのに使えるかもしれない。2018/01/28
esehara shigeo
6
言語はその内部に他者性を持っており、それらと関係して使われる。まとめてしまうと余りにも平凡で素朴な意見だし、そういうものだろう、と思うのだが、その他者性を小説に適用するのがバフチンの真骨頂である。確かに、当時のマルクス主義的な体制に併合しなければならない部分もあったかもしれないが、にも関わらず「言語的多様性」が「生き、闘争し、生成する」といった観点はやはり面白い(が口にすると平凡だ)。バフチンの言語論自体が何処か「意図とは違い屈折して」おり、「多声化」しているからこそ、スリリングに感じるように思う。2019/06/23
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