内容説明
プロレタリアの夜をミシシッピ・デルタとニューヨークの夜に直結させ、音楽を国家から防衛し、文化と闘わせる「政治と美学」の出会い。才能でも歴史でもなく普遍的知性が反乱の「音楽=言葉」を生む。
目次
第1章 哲学から音楽へ―ランシエールを駆け抜ける(文化大革命の後、プロレタリアはもう眠らない;サバルタンは倫理と分子革命に反対して演技する ほか)
第2章 ロックンロールの美学(芸術の美学体制における音楽―諸君、音楽を文化から守るために「ロック」したまえ;暴走するミメーシス―プラトン、ロックンロールを恐れる ほか)
第3章 鳥たちのブルース(音楽が歌である偶然と必然;リフにはじまる ほか)
第4章 平等の音楽(音楽=言葉、再び―転倒から逆転へ;知らないことを教える―「すべての人間は芸術家である」 ほか)
著者等紹介
市田良彦[イチダヨシヒコ]
1957年生。京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。神戸大学大学院国際文化学研究科教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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しゅん
10
ランシエールの哲学の解説と、ブルースとノイズに依拠した音楽批評が混じっている不思議な構成の本。しかし、ポピュラーミュージック、政治、哲学それぞれに何らかの引っ掛かりを感じている自分からすると、ドンピシャの文章だった。3章の主人公であるヴェルヴェット・アンダーグラウンドを「子音と母音がずれるどもりの音楽」ととらえ、(師匠格である)ラ・モンテ・ヤングの永続性との差異を強調しているのが面白い。ロックの模倣性と複数性が反プラトンだとする話も気になる。模倣が、1章で書かれた政治の演劇性につながっているのだろうか。2021/10/27
1
再読。共同体は「政治的共同体」を抑圧することによって「倫理的共同体」(プラトニズム)を構成する。つまり、政治=演劇(ミメーシス)が共にDarstellungであるがゆえにそれを追放(=「感覚的なものの分割」)することによって達成されるものである。それは政治=演劇(芸術?)が「何が芸術であってそうでないか、何が政治的行為であってそうでないか」という闘争の場(=「境界の過程と攪乱と移動のドラマ」)、そしてその間隙に潜在力をランシエールは見ようとしたのではないか。 2017/06/03
aquirax_k
1
ランシエールのプロレタリアの夜が読みたい。いつ翻訳してくれるの…
ヒロミチ
0
ランシエールを音楽に基づいて読み直す試み。分からないアーティスト多かったが勉強にはなる。 2023/12/04