出版社内容情報
ベトナム戦争の写真報道でピュリツァー賞にかがやき、34歳で戦場に散った沢田教一の人生を描いたノンフィクションの名作。
内容説明
「安全への逃避」をはじめとするベトナム戦争の写真報道でピュリツァー賞にかがやき、一躍世界に名を知られ、やがて34歳の若さで戦場に散った“日本のキャパ”沢田教一。情熱と野望に満ちたその人生の軌跡を、ベトナム、アメリカ、ロンドン、香港に訪ね取材し、浮かび上がらせたノンフィクション。ベトナム戦争のある一面を知ることができる貴重な記録でもある。
目次
第1章 離陸―三沢空軍基地
第2章 サイゴン―アメリカの戦争
第3章 栄光―ビルド・アップ&エスカレーション
第4章 激戦―ウォー・コレスポンデンツ
第5章 頂点―テト攻勢
第6章 香港―再び戦場へ
第7章 カンボジア戦線―国道二号線
著者等紹介
青木冨貴子[アオキフキコ]
1948年、東京生まれ。作家、ジャーナリスト。1981年、デビュー作の『ライカでグッドバイ』が高い評価を受け、ベストセラーになる。1984年に渡米、3年間「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を務めた。1987年、作家ピート・ハミルと結婚。以後ニューヨークを拠点に執筆活動を続ける(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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- 評価
京都と医療と人権の本棚
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
活字スキー
22
【「ああ、その二人なら共産側のアンブッシュ(待伏せ攻撃)によって殺されたよ」行きには何でもなかった道が、帰りにはそうはいかなかったのだ】写真のタイトルやそれを撮ったカメラマンのことは知らずとも、濁流を懸命に渡ろうとするアジア人女性と子どもたちの白黒写真をどこかで見たことがあるという人は多いだろう。青森生まれの寡黙な若者は何故、故郷を遠く離れたカンボジアで、34歳の若さで死ぬことになったのか。 2020/05/12
yokmin
19
若くしてカンボジャで命を落としたピューりッツアー賞受賞カメラマン、沢田教一。解説・角幡唯介「自分自身を写真に託し、写真によって自分という存在が社会に対して打ち立てられることに、沢田教一は己の全生命を賭けていた。・・根源的な表現者としても業としか呼びようのない欲求である。・・周囲の目から見るとどれだけ不合理なことでも、彼には自分の命を危険にさらす価値があった。」ところで、ベトナムなどの戦場を経験した記者・カメラマンにはその後若くしてこの世を去った人が多い。開高健・近藤紘一・岡村昭彦・秋元啓一・・なぜか。2016/12/25
sabosashi
15
写真家沢田教一はすぐれた作品を数多く残した。報道写真を撮ることの執念にわたしたちは驚く。いかなる危険をおかしても、だれかが撮らなくてはならなかった瞬間やら光景。そしてこの写真家をめぐるストーリーを著者はみごとに描き出して感服。さしずめ「存在と行為」なる名称を捧げたくなる。行為の欠けた存在を撮ることもありえたはず。でもそんなことを言ってなんになるだろうか。緊迫感のかけた映像は撮るにあたいしないとこの写真家は考えたにちがいない。さて、ここからは蛇足。生きるとは燃え尽きるだけではないはず。2024/08/03
まこ
13
安定や安心がどうしても合わない人がいる。沢田記者は戦場の写真を撮りたい。背景には子供も頃から日本人の普通からズレてる、賞を取っても日本ではピンと来なかったがあるのではないか。ベトナム戦争から報道陣は自由に動いていい、これのおかげで沢田記者に関わらず現地の実態を届ける機会が増えた2022/01/01
パンダ女
8
あの有名なベトナム戦争の写真が誰に撮られたものか、知らなかった。戦場カメラマン沢田教一。この寡黙な男は、戦場という非日常、いつ死ぬとも分からないスリルに病みつきになり、戦地で命を落とした。彼からは決して「戦争の現実を知ってほしい」などというジャーナリズムは感じられずむしろ、賞をとりたい、有名になりたい、といった承認欲求と強烈な野心が感じられた。「アメリカンスナイパー」みたく日常生活に戻れなくなり、あまり冷静な判断が出来なくなっていたように思う。解説の角幡さんは冒険家だが、沢田と通じるものがあるよう。2020/03/09