内容説明
デリダは、フッサールを読むことによって、「読む」とは何か、「書く」とは何かを根底的に考え直した。本書は、フッサールの『論理学研究』(『認識の現象学と認識論のための諸研究』)の第一部「表現と意味」の驚嘆すべき綿密な読解を通して、現象学的批判という方法が「形而上学的企てそのもの」だということを暴き出す。その困難な作業のなかから、「脱構築」「痕跡」「差延」「代補」「エクリチュール」…といった魅力的な「操作子」(言葉でも概念でもない脱構築の道具)が産み出された。後に「たぶん最も愛着を覚えている試論だ」とデリダ自身が言っているその代表作。
目次
第1章 記号、いくつかの記号
第2章 指標の還元
第3章 独語としての意‐味
第4章 意‐味と表象=代理
第5章 記号と瞬き
第7章 沈黙を守る声
第7章 根源の代補
著者等紹介
デリダ,ジャック[デリダ,ジャック] [Derrida,Jacques]
1930‐2004年。アルジェリア生まれ。エコール・ノルマル卒業。西洋形而上学のロゴス中心主義の脱構築を企てた哲学者
林好雄[ハヤシヨシオ]
1952年生まれ。東京大学仏文科卒業。駿河台大学教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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syaori
65
初期の試論。ここで作者が語るのは、「形而上学的思弁を批判」するフッサールの思考と「形而上学の言語」との一体性。作者は「記号の概念という例」からその思弁的な癒着を示します。それはフッサールの「現前性」「生き生きした現在の自己」は同時に「根源的に痕跡」イデアなのだということで、そこでは個と普遍、<生き生きしたー現在>とその無際限性は巻込み合っている。その〈現在〉を巡る形而上学の「出口を包み込んだ迷宮」の中で残されているのは「語ること」だけと言う作者の声に、彼の論考に感じる詩情と哀調の根を見たように思いました。2022/01/11
ころこ
46
哲学書にしては短いので読み易いかと思いきや、全くそんなことはない。フッサール『論理学研究』をはじめ『イデーンⅠ』などが対象となっているので、まずはフッサールの議論を、その上でとデリダと両方の議論に目配りできないと理解できない。記号が主体の意図を伝達するフッサールに対して、デリダは記号が記号である以上、主体の意図を超えて記号は意味を持ち得る。純化したいフッサールに対して、自分の声だって自分で聞だろうというデリダは「差延なき声、エクリチュールなき声は、絶対的に生きていると同時に絶対的に死んでいる」という。2023/02/12
記憶喪失した男
16
デリダの主著である。フッサールへの反駁として書かれた書物であるが、フッサールの功績を客観の否定とするぼくには、デリダは良きフッサールの反駁者ではない。超難解である。デリダは、イデア論を支持している。脱構築という単語は出てきたが、この本の本質ではない。2016/09/22
またの名
14
訳注が現象し過ぎ。言葉にならない身振りや微妙なトーンを指標とフッサールは呼んで、純粋な意味というイデアから区別し排除。しかし不純物をすべて取り除いた純粋な意味とは、物理的には実在しない想像上理論上のもの。イデア的意味が存在するなら、イデアでない物質の無数の反復によって具現されることを必要とするのと同じく、区別対立した二項は相互に汚染され分かち難い。にも関わらず純粋な意味を追求した結果、他の何にも侵食されず究極の引きこもりのように自分で自分の声を聞くナマの意識の確かなリアルさを見出してしまう哲学の罠に挑戦。2018/06/07
柳田
12
原書の副題は「フッサール現象学における記号の問題入門」である。イントロダクション。正気で言ってるのか知らないが勘弁してほしい。副題自分でつけたんだろうか。読書会のテキストで、ちくちく読んでいるが背景知識も十分じゃないしさっぱり分からないが、デリダのテクストの中ではましな部類らしい。本書は67年の著作というから、単純年齢で37歳、わりあい初期の著作で、後期になっていわゆる学術的な書き方を全くしなくなるという。フッサール現象学批判を通じて脱構築とか差延とかデリダの術語が生成されてゆく重要なテクスト、らしい。。2018/03/09