出版社内容情報
人間は自由意志をもつのか。私たちが互いを責めたり罰することに意味はあるか。刑罰や責任をめぐって〈人間として生きること〉を根底から問う哲学的探究。
内容説明
人間は自由意志をもつ主体であり、過ちを犯した者が咎められ罰されることは、古くから共同体における基本的なルールと考えられてきた。一方、自由の存在を否定し「刑罰は無意味だ」とする神経科学や社会心理学の立場がある。はたして人間は自由な選択主体か。私たちが互いを責め、罰することに意味はあるのか。抑止、応報、追放、供犠といった刑罰の歴史的意味を解きほぐし、自由否定論、責任虚構論の盲点を突く。論争を超えて、“人間として生きること”を根底から問う哲学的探究。
目次
序 責めることと罰すること―自由と責任の哲学へ
1(刑罰は何のために?―“応報”と“抑止”;身体刑の意味は何か?―“追放”の機能;刑罰の意味の多元主義―“祝祭”・“見せもの”・“供犠”・“訓練”)
2(応報のロジック;自由否定論;責任虚構論)
3(それでも人間は自由な選択主体である;責任は虚構ではない―自由と責任の哲学;自由・責任・罰についての指摘)
著者等紹介
山口尚[ヤマグチショウ]
1978年生まれ。京都大学総合人間学部卒業。同大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。専門は形而上学、心の哲学、宗教哲学、自由意志について(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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trazom
125
法学的な刑罰論ではなく、「人を罰することの意味」を哲学的に考察する一冊である。刑罰の目的に「抑止」とともに「応報」があることに注目し、果して「応報」は可能かと問いかける。「そもそも私たちは自由な選択主体ではないから、人間を応報の意味で罰することはできない」とする自由否定論・責任虚構論に対して、著者は、「責任や応報も人間の活動を成り立たせるフレームワークに属する」として反論を試みる。結論に対してトートロジー的なもやもや感は残るが、自らの意見や悩みを詳らかにして記述する著者の誠実な姿勢に、好感を覚える。2024/01/04
香菜子(かなこ・Kanako)
28
人が人を罰するということ ――自由と責任の哲学入門。山口 尚先生の著書。人が人を罰するということはどういうこと?人が人を罰する資格は本当にあるの?仕事として人を罰するということをしている人はいるけれどそれは本当に正しいこと?人間は間違うもの。間違うことがない人間なんて人間ではない。同じ間違うものであるはずなのに人が人を罰するということは矛盾するのかな。仕事として人を罰するということをして人が間違えたら他の人よりも厳しく処罰されないとおかしいのかな。考えさせられる一冊。2024/05/01
みこ
28
サブタイトルに哲学と書いてある通り、法学的な刑罰論ではなく、人がルール違反を犯した者に対してどのような感情を抱くのか、また、ルール違反という行為に対して責任は発生するのかなどを論じる。人が処罰的な感情を持つこと自体は自然なことと論じているが、その流れで昨今ネットの少々行きすぎな処罰感情についても論じて欲しかったが、ボリューム的に一冊の本にまとめるのは困難か。2024/01/08
buuupuuu
25
現代社会では至る所で自由や責任というものが語られる。それゆえに様々なレベルで、私たちが本当に自由なのかどうかが問題にされる。本書では、自由がまったく存在しないとしたら責任や罰といったものが無意味になるのではないかという議論が検討される。著者の考えでは、自由が存在しないと「主張する」ことは、いわば行為遂行的な矛盾である。刑罰の有意味性についての議論は、日常生活における罰や責任についての議論へと容易に拡大できる。罰や責任がない世界とは、行為や規範性がない世界である。私たちはそういう世界を生きることができない。2024/01/19
かんがく
14
刑罰を通して自由意志と責任について考察する哲学書。Ⅰ部は刑罰の役割を歴史的に紐解いていく内容で理解しやすかったが、Ⅱ部以降一気に議論が抽象的になって完全には理解できなかった。以前読んだ『責任という虚構』へのアンサーだが、なんとなくしっくりこない。2024/03/06