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浦和レッズのしゃべり場
浦和レッズのしゃべり場〈1〉土田尚史×田北雄気―先発と控えの際(きわ)

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  • サイズ B6判/ページ数 91p/高さ 19cm
  • 商品コード 9784434015328
  • NDC分類 783.47
  • Cコード C0375

内容説明

土田尚史×田北雄気、浦和レッズライバルゴールキーパーの9年間。正ゴールキーパーの座を競ってきた二人。熾烈なポジション争いにまつわるエピソードの数々。

目次

会話なんてしなかった
ライバル元年
ミロ・ショック
田北の復帰
プリーズゴーホーム
土田、大声出すな
お互い「次は来る来る」
タキ、ケガすんなよ
コーチ兼任
画びょう事件?!
存在感と影響力
キーパーとしてのテクニック
オレら優勝してないからね
ライバルから親友へ

著者等紹介

土田尚史[ツチダヒサシ]
1967年2月1日、岡山県岡山市生まれ。岡山理大付属高校でサッカーを始め、GKになる。その後、大阪経済大学に進み、在学中から日本代表(B選抜)に選ばれる。89年に三菱重工入り。チームはその年日本リーグ2部に降格したが1年で復帰。91年のシーズン前にプロ選手として契約。日本リーグでの出場記録は1部13試合、2部3試合。浦和レッズとして始動した92年は公式戦13試合すべてにレギュラーとして出場。Jリーグ開幕の93年も当初は出場したが、左ヒザの半月板を手術。そのシーズンはリハビリに努めた。94年、95年は小さな故障を除き、ほぼレギュラーで出場。しかし96年のシーズン前キャンプで右目眼球内出血の重傷を負った。夏に左ヒザの再手術をしたこともあり、その年は出場なし。97年、98年は大きなケガもなく田北雄気と出場を分け合った。99年はリザーブからスタート。出場チャンスをつかみかけたとき、左脚の舟状骨を骨折。その後は復帰できなかった。00年はシーズン開幕直前にGKコーチ兼任の依頼を受諾し、実質的に現役から一歩引いた。01年、正式に現役引退し、レッズのコーチに就任した。現役最後の試合は98年11月3日の横浜マリノス戦(国立)。レッズでの出場記録はJ1・134試合(223失点)、ナビスコカップ17試合、天皇杯16試合、J2なし

田北雄気[タキタユウキ]
1967年5月16日、埼玉県浦和市生まれ。浦和市岸町サッカー少年団でサッカーを始め、大宮東高校から東海大に進み、90年にNTT入りした(チームはNTT関東)。92年、Jリーグ発走に伴って浦和レッズに移籍。プロの道を選んだ。92年は公式戦出場なし。初出場はJリーグ開幕3試合目、93年5月22日の横浜フリューゲルス戦(三ツ沢)。その後一時リザーブに回ったが、7月からレギュラーで出場。しかし10月にやってきたチェコ出身GKミロにポジションを奪われた。94年は出番がないまま左ヒザを手術。約1年間のリハビリに努め、95年9月9日に試合復帰。その年は5試合に出場した。96年はリーグ戦、ナビスコカップ、天皇杯の公式戦48試合にフル出場。さらにリーグ最終節ではPKを決め、J初のGK得点者となった。97年、98年は土田と出場を分け合い、99年は再びリーグ戦フル出場を果たした。00年はリーグ戦残り7試合まで、1試合を除き出場。その年、クラブから契約更改なしを通告され、現役続行の道を探したが断念。01年は母校、東海大のコーチ、横浜FCのコーチ、解説者などを仕事とする一方、フットサル日本代表チームのGKとしても活躍。レッズ最後の試合は2000年10月1日のアルビレックス新潟戦(新潟)。レッズでの出場記録はJ1・9試合(172失点)、J2・42試合、ナビスコカップ27試合、天皇杯9試合
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