内容説明
われわれはなぜゾンビに魅了されるのか。なぜ彼らに襲われ、世界が崩壊するさまを何度も描き出してしまうのか。映画をはじめ多様なコンテンツに溢れるゾンビを、現代社会を生きる人々の欲望の徴候と捉え、カント、フロイト、アガンベン、ディディ=ユベルマン、クリステヴァなど豊富な思想的ツールを動員し、様々な切り口と角度から論じる、ゾンビを通した現代社会論の白眉。
目次
モチーフ(ハイチのゾンビ;一九六〇年代のゾンビ ほか)
分身(現実が横滑りするとき;類似 ほか)
怪物(「死、いたるところに死が」;アブジェクト ほか)
アポカリプス(崇高と廃墟;矛盾と理念 ほか)
開示
著者等紹介
クロンブ,マキシム[クロンブ,マキシム] [Coulombe,Maxime]
1978年生。ラヴァル大学人文学部教授。専門は社会学、美術史
武田宙也[タケダヒロナリ]
1980年生。京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程修了。博士(人間・環境学)。専門は哲学、美学
福田安佐子[フクダアサコ]
1988年生。国際ファッション専門職大学国際ファッション学部助教。京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。専門はホラー映画史、表象文化論、身体論(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
藤月はな(灯れ松明の火)
82
ゾンビ。そう言われて思い浮かぶのは、人の形をしていながら思考や感覚は異であり、生きた人間の肉を貪り、感染させ、増殖する事で社会の秩序を意図もせずにジワジワと破壊へ導くという存在だ。そんなゾンビ像に対し、社会、存在性への哲学を考察した、刺激に満ちた本である。時に滑稽さもあるゾンビ。しかし、多くは人類の存続のために利用されたり、殺されるように描かれがちだ。即ち、かれらは決して完全に分かり合えない他者への恐怖や差別意識、人間の利己利益への貪欲さや社会で生きていくための感情・思考停止をも映し出す鏡でもあるからだ。2019/10/15
ヘラジカ
52
今やあらゆるカルチャーのなかで確固たる地位を築いているゾンビについて、モチーフの成り立ちや変転、興味や恐怖を惹きおこす構造などを、一般向けと言えるかどうかの際どいラインで論じている。小哲学とはいっても、素人目に見ると短いながらもかなりしっかりと哲学している印象だ。好きな分野なのでとても面白く読んだ。そもそもが匿名の群衆や伝染病への不安のメタファーとして形象化したゾンビを、昨今の社会状況においては感染拡大のみならず、パニックに陥り理性を失った集団などから恐怖表象として想起してしまうというのは皮肉である。2020/05/09
蘭奢待
47
とても真面目にゾンビと現代社会を結びつけ、世相や風潮を論じる。哲学用語が多く難解。ゾンビは哀しさや滑稽さを表す存在であるとし、何故なのかの説明を試みている。それは人間と似て非なる存在であり、生命や意識を持たず、力も脆弱であるが無限に「発生」してくる。 読みながら思うにゾンビとは人種差別のメタファーではないだろうか。人間の姿ながら自分たちとは何かが違う。そこに違和感と恐怖感、嫌悪感が生まれて来るのではないだろうか。類似性を感じる一方で、似て非なるものであることを知った時の喪失感あるのかもしれない。2019/08/10
rinakko
10
“いくつかの細かい点を除けば、ゾンビとは人間なのであって、この近接性によってこそゾンビは恐怖を引き起こす。” “攻撃的で伝染性のゾンビは、蔓延という暴力の驚くべき特性を可視化するものである。” “人類の終焉はわれわれの復讐となるだろう。われわれはもはやその犠牲者ではないのだ。といのもわれわれは、少なくとも想像のうえではそれを夢に見て、願ったのだから。かくして人類の終焉は、われわれのストレスを解消するものとなりうるだろう。アポカリプス映画はわれわれにそうした幻想を見させる。そこでフィクションは、2021/03/02
y_nagaura
8
これはとても面白い。ゾンビについて歴史を振り返りつつ、哲学者の論を引用してゾンビに私達が期待・投影している像を明らかにしている。 白眉は訳者もゼミで紹介したという聖なる人間(ホモ・サケル)論。ギリシア人のもつ「聖なるもの」への理解がゾンビ論に拡張され、現実世界での私達の振舞いへの洞察につながる。また、ゾンビ・アポカリプスを通じての崇高論も興味深い。訳者あとがきも、本書を総括しつつヴァンパイアとの混同や日本におけるゾンビの受容など新たな洞察が付与されて読み応えあり。2022/02/19