内容説明
「アミダ如来はんにいただいた信心を、おれのもんやいう顔で取り返そういうのんは、ホンマにアホらしいことやで」。天災や飢饉に見舞われ、戦乱の収まらない鎌倉初期の無常の世にあって、唯円は師が確信した「他力」の真意を庶民に伝えずにいられなかった。親鸞の肉声、ここに蘇る。
目次
歎異抄
歎異抄(原典)
付録 親鸞和讃抄
著者等紹介
唯円[ユイエン]
1222?‐1289?浄土真宗の僧。常陸国泉慶寺の開基。親鸞の直弟子。親鸞没後の1286年頃、『歎異抄』を著したとされる
親鸞[シンラン]
1173‐1262。浄土真宗の開祖。日野有範の子として京都に生まれる。別名範宴・綽空・善信。比叡山で約20年修行に励んだ後、法然の浄土門に入る。1207年越後に流罪、その後恵信尼と結婚、子どもをもうける。浄土門の教えを庶民の間に押し広める。1256年には異説で人心を惑わしたとして実子・善鸞を義絶
川村湊[カワムラミナト]
1951年生まれ。文芸評論家。1982~86年、韓国釜山の東亜大学で日本語・日本文学を教える。現在、法政大学国際文化学部教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ナマアタタカイカタタタキキ
52
本文がコテコテの関西弁で訳されていて面食らう。この試みが親近感やら臨場感やらを醸し出すのにどれだけ効力を発揮しているのかは私にはわからない(初めて手に取ったのがコレなため)。が、仏教用語に対してすかさず解説が入っていたりと割合親切であり、どのような内容かは一応把握出来たつもりでいるが、初見では“誤読してやいないか”と疑いたくなるようなことも多々書いてある。自身で修行やら善行やらを繰り返すうち、阿弥陀様を信ずる心が、ともすれば阿弥陀様に頼らねばどうにもならない悪人よりも劣ることがある、とか。他の訳で要再読。2020/05/10
Y
40
なんとなくところどころは読んだことはあったけど、通しで読んだのは初めて。人を殺さないでいるのは自分の心が清いからでもなく、殺さざるを得ない縁になかっただけだという親鸞と唯円の問答が前に読んだ時と同様身につまされる。自分のないようである過信を見抜かれた感じがする。解説にあったように、親鸞の生涯と今の浄土真宗のあり方は矛盾しているという話には深く共感した。本当はもっとシンプルに誰もが極楽往生できる方法を思索したものだったのに、今では権威主義的なところがある。どうしてこうなったのか今度調べたい。2017/01/31
藤月はな(灯れ松明の火)
35
はんなりとした関西弁で説く「他力本願」。大学ではキリスト教の教えと親鸞の思想を学び、最近では倉田百三氏の『出家とその弟子』を読んだので理解を深めることに。そしておかざき真里さんの『阿・吽』の最澄の思想で感じた違和感を改めて確認することにもなりました。出家したり、寺院に寄付して往生を頼むことができる人は少ない。では生活のために殺生をする人間は救われないのか。いや、そうではない。何年も心を伴わない修行をするより、一度でもいいから「救われたい」と真摯に願う。それだけで救われる。限界を知った上での救いが他力本願。2015/02/03
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32
自力をたのんで往生を遂げようとする善人ですら果たせるのだから、他力のみに望みをかける悪人が往生できない謂れはないとする悪人正機は、凡人からすると言葉のトリックかとも思えるくらいだが、これほど強力に信心に向かわせる教えはないだろう。ただ愚直に念仏を唱えさえすれば往生できるという教えは、死への恐怖を取り除くには最強の方法と思える。仏の教えに限らず、つくづくと宗教は哲学だと思うが、小説で読む親鸞では今ひとつ掴みきれなかった親鸞の教えが理解できた気がした。そういう意味では唯円が果たした仕事は大きいと思う。2016/12/19
禿童子
29
関西弁の現代語訳があまりにも読みやすいので、これでええんかいなと逆に不安になって原文を読もうとすると即、寝落ちした。善行を積むことで悪の負債を減らそうとする考えは阿弥陀の誓願を信じてないことになる。念仏の回数は救済の大小に関係ない。絶対他力の境地、凡夫の無力さ。親鸞在世中にすでに信心の優劣を問う議論が起きていたことから、後の教団分裂の伏線がすでにあったことがわかる。蓮如が歎異抄を門外不出にしたことも頷ける。2017/08/15