目次
序講 帰家穏坐としての坐禅
第1講 坐禅は習禅にあらず
第2講 正身端坐の坐禅
第3講 尽一切と通い合っている坐禅
第4講 活溌溌地の坐禅
第5講 結果自然成の坐禅
著者等紹介
藤田一照[フジタイッショウ]
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科教育心理学専攻博士課程を中途退学し、紫竹林安泰寺にて曹洞宗僧侶となる。1987年よりアメリカ合衆国マサチューセッツ州西部にあるパイオニア・ヴァレー禅堂に住持として渡米。近隣の大学や仏教瞑想センターでも禅の講義や坐禅指導を行なう。2005年に帰国。神奈川県三浦郡葉山町にて独自の坐禅会を主宰。2010年よりサンフランシスコにある曹洞宗国際センター所長として日本と海外を往還している(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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SOHSA
25
《kindle》他の方のレビューを読み、興味を持った。なるほど、私たちが一般に抱いている坐禅に対するイメージ、既成概念を大きく正すものであった。道元の言葉を紐解き、その真意を深く掘り下げて解説してくれた文章に読み手としてはひとつひとつがしっくりと腑に落ちた。不立文字とはいうがやはり禅を言葉で解説することの難しさを実感するとともに果敢に挑み伝えようとする著者の取組みに頭が下がった。2020/02/09
fishdeleuze
22
本書はほぼ、坐る前までについて書かれている。筆者はくどいほど坐禅は習禅ではないといい、坐ることは修業の手段ではなく、坐ることそれ自体をいかに行うか。坐ることは自ずからなっていくというプロセスであり、それが禅であるという。それでは自ずからなるのはいったい何かを詳しく述べたのが本書である。道元禅師のこの言葉は、本書の求めるものが含まれている。「ただわが身をも心をも放ちわすれて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行なわれて、それに従いてゆく。…ちからをもいれず、こころをついやさずして」(『正法眼蔵』「生死」) 2017/10/20
takeapple
10
テーラワーダ仏教の瞑想と坐禅、特に曹洞禅の違いがなんとなく掴めたかなあ。その中で身体と向き合うことの大切さを追及している姿勢がすごいなあ。仏教って、坐禅ってなんだろう。とっても奥が深いということはわかった。2022/06/20
kanaoka 57
8
宗教は行き着くところ意識を超えた処のものであり、それは極めてシンプルなものとなる。 神の声を聴く。世界のビジョンを観る。汎神論。マントラ・曼荼羅。念仏。そして只管打坐。 効力動機という根源的欲求が、くつろぐことを許さないのであり、これを意識で断つことはできない。ポイントは体と無意識と一体化し、受動的であること。意識にとっては受動的であっても、体や無意識は環境との関係において、ダイナミックに、そして細やかに、活動(反応)している。2017/10/02
三上 直樹
5
藤田一照師が、釈尊から道元禅師へと正伝された坐禅の意義と極意を、5人の善知識との対談をまじえて微に入り細に入る形で語った必読の一冊。これを読めば坐禅がわかると言いたいところですが、行わなければはじまらないのが坐禅だけに、まずは坐禅する環境へと整えたいと思います。2018/06/20
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