出版社内容情報
没後二十年。ライプニッツを通じて出来事とは何かを考察、新たなバロックを構想する、その哲学の頂点をしめすドゥルーズ後期の名著。
【著者紹介】
1925年パリ生まれの哲学者。1995年、自ら死を選ぶ。スピノザやニーチェの研究を通じ西欧哲学の伝統を継承しつつその批判者となる。主著ーF・ガタリと共著『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』他。
内容説明
ドゥルーズ没後二十年。ライプニッツ没後三百年。われわれはライプニッツ主義者であり続ける。核心的な主題を新たなるバロックとして展開するドゥルーズ後期の目眩く達成。
目次
1 襞(物質の折り目;魂の中の襞;バロックとは何か)
2 さまざまな包摂(十分な理由;不共可能性、個体性、自由;一つの出来事とは何か)
3 身体をもつこと(襞における知覚;二つの階;新しい調和)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
34
21
ドゥルーズらしい奔放なレトリックで、ライプニッツとバロックの形式、さらにベルクソンやホワイトヘッドの哲学について、横断的かつアナクロニスティックに論じている。モナドは無限の逆数(1/∞)であり、神の公式は∞/1なのだなんて言われると、さすがにソーカル事件の象徴的意味あいを歓迎せざるをえない。とはいえこのアナロジー力が、ドゥルーズの驚異的な要約力と編集能力を支えてるのはまちがいない。最近ホワイトヘッド論を2冊読んだのだが、ドゥルーズがわずか2センテンスほどで要約している箇所の方がより有益におもえたくらい。2017/05/02
ひばりん
10
難解な本だ。ライプニッツと襞とバロックという、少なくとも3つの重心を持っている上に、それらを語るドゥルーズの文体じたいが襞の様相を呈しているからだ。ミシェル・セールのライプニッツ論が引用されているが、おそらくドゥルーズはセール対して友情含みの対抗心を持っていただろう。ぐにゃぐにゃしたものを明晰に扱う学が位相幾何であり、セールはこちらの道を行った。しかしドゥルーズはぐにゃぐにゃしたものをぐにゃぐにゃのままに扱おうとする。本書を実践的に応用した美学書としてディディ=ユベルマン『ニンファ・モデルナ』がある。2021/12/03
wadaya
10
ドゥルーズがこの本で最も気に入っている文は「今夜コンサートがある」だそうだ(笑)一貫して述語は主語の従属ではないと言っている。それは1/ ∞ の出来事であり我々が本質だと思っていた事さえも永遠ではないということだ。「モナド」を私的に解釈すると無限変化する襞を内摂した「世界」である。世界は魂と身体において二度折畳まれる。襞とは無限大と無限小から来る屈折であり、分裂し統合する。僕の言葉で言うと世界を認識するのは左右の脳の連携であり、それは一方の先行を補完する形で調和をもたらすということである。そして(続く)2017/12/16
wadaya
8
再読。ドゥルーズ「襞」はライプニッツ論ではあるが、同時にホワイトヘッド論でもある。その系譜はプラトン→ライプニッツ→ホワイトヘッド→ドゥルーズへと見えない糸で結ばれているかのようである。知っていたわけではない。頭で考えるのではなく、気持ちの向くまま、自分の感覚だけを信じて哲学書を読んできた結果、浮かび上がるものがあったということである。ドゥルーズは世間的にはポストモダンなのだろうか?本人はそう思われるのを嫌ったようだが、もしドゥルーズをポストモダンと呼ぶのなら、私はポストモダンが好きだ。面白くて、→2022/12/27
一郎二郎
2
世界の原理を人間理性の中に閉じ込めたカントは、世界の虚無化の道程にあったが、発想元はライプニッツの2階建モナドにあった。1階は物質の折り目よりなり窓もある。2階は魂の襞よりなり窓が無いが、下の階の運動からの音響が鳴り響いている。魂は世界を現働的に知覚し、身体において実現化し出来事となる。個々のモナドは世界全体を表現しながら、無数の小さな知覚により世界を包摂するが、それが明晰な知覚という積分を可能にするたび、私は変革される。世界がカオスモスと化した現代も、折り畳む事は依然我々の人生の重要問題であり続ける。2025/01/28