出版社内容情報
3600万人が餓死した「大躍進」時代。毛沢東はなぜ大失政を犯したか。新華社元記者が各省の公文書館を訪ね当事者に取材。中国発禁の書!
目次
主要人物一覧
序章 永遠の墓碑
一、なぜ養父は餓死したか
二、党を信じきっていた私
三、「大躍進」 は人類史上最悪の惨劇
四、極権制度が諸悪の根源
なぜ、 養父は飢え死にしたのか。毛沢東は、 いかなる罪を犯したのか。新華社記者だった著者は、中国共
産党最大のタブー、「人類史上最悪の惨劇」 の究明を決意する。三千六百万人 (著者推定) もの餓死者
の墓碑が本書である。
第一章 モデル地区で何が起こったか
一、「魚米の里」 での大飢饉 ─信陽事件
二、まかり通る嘘とごまかし
三、続発する粛清とリンチ
四、常態化する飢餓地獄
五、撲殺は正しい行為
六、中央に届かない情報
七、毛沢東の 「一本の指」
八、いったい何百万人が餓死したか
イギリスを追い越すと宣言した毛沢東の大躍進政策。生産と消費の極端な共同化によるその政策の結果何が
起こったか。著者は「大躍進」のモデル地区ともされた故郷の河南省の実態を探る。
第二章 周恩来は、 なぜ毛沢東を止められなかったか
一、共産世界の指導者という野望
二、周恩来、 冒進に反対す
三、毛沢東、 〝反冒進〟 を批判する
四、周恩来は右派から五十メートル
五、成都会議 ─用意された総路線
六、劉少奇は、 追随、 鄧小平は是認
東側世界の盟主を夢見て、急速な共産国家建設をめざす毛沢東。その急進路線に周恩来らは危惧を覚える。
その実務派を押え込み、五八年の八全大会で、社会主義建設総路線を敷くまで。
第三章 偉大なる実験、 公共食堂の誕生から終焉まで
一、集団化で農村を支配する
二、「人民公社は良い」
三、資本主義の温床・家庭を消滅させよ
四、公共食堂に固執する毛沢東
五、農民の胃袋を支配した独裁政治
人民公社によって生産を共有化する。その後にきたものは消費・生活の「共有化」 だった。「共産主義下
では家庭は消滅すべきだ」毛沢東はこう宣言し、 公共食堂の実験が始まる。家々での調理、 飲食を禁止、
食事は食堂でのみ供される。
第四章 五つの風が吹き荒れる
一、共産風は歴史のお笑い種
二、統計を捏造する誇張風
三、毛沢東の思いつきで悲劇が拡大
四、 五つの風はなぜ起こったか
一切の所有を否定する共産風、幹部が特権化する特殊風。とりわけ統計を捏造する誇張風は、悲劇を大きく
したでたらめな食糧統計を基にした計画経済がもたすもの─
第五章 来年の籾種まで拠出する
一、強制買い付けで飢える農村
二、国家中枢に食糧を集中せよ
三、食糧過剰を心配する毛沢東
四、農民の飢えを信じない党
五、農村を絞って都市を守る
各省の誇大に報告された食糧生産の数字をもとに、党中央は、 地方からの買い付けを実施した。その結果
、あっという間に食糧は都市にめしあげられ、農村の食糧庫は空になった。そうした時においてもなお、
毛沢東は、 豊作による食糧の過剰を心配した。
第六章 彭徳懐を罠にかける─廬山会議
一、蛇を巣から誘い出す
二、彭徳懐の 「意見書」
三、配布された手紙
四、劉少奇、 林彪は保身に走った
五、用心深く立ち回った周恩来
六、「彭徳懐反党集団」 をでっち上げる
七、全土に広がる反右右傾の烽火
一九五九年の廬山会議は明暗を分けた。急激な社会主義化に異論の声があがり、国防相・彭徳懐は、毛沢東
を諌める手紙を送る。毛は手紙を会議で公開し、反対派へ包囲網を敷く。……大躍進政策の是正は封じられ
た。
第七章 毛沢東よりさらに左を行く─四川省
一、毛沢東の地方視察
二、毛のさらに左を行く李井泉
三、最長だった四川省の飢餓
四、「疫病」 であって 「飢餓」 ではない
五、農民は骨と皮、 幹部は肥え太る
六、命を救う動き ─包産到戸
七、反右傾が飢饉を悪化させた
毛沢東も事態の深刻さに気がつき、やりすぎを戒める手紙を各省に出す。しかし、四川省では、毛の指示を
無視し、さらに極左の政策をとる幹部・李井泉がいた。
第八章 所有という解毒剤─安徽省
一、 万物枯れる共産風
二、日常茶飯の人肉食
三、清廉な英雄への猛攻撃
四、解体される公共食堂
五、責任田 ─はっきりしない毛の態度
自留地をもたせ、農民を立ち直らせよう。人肉食が相次ぐなか、公共食堂の多くが解体され、農家には生産
責任制が導入された。右派の主張を導入し、救荒策を打ち出す安徽省幹部。だが、毛沢東の態度は終始あい
まいだった。
第九章 幻の反革命集団─甘粛省
一、反革命集団の大本営
二、壮大なでたらめ ─利水工事
三、逃げられない民
四、餓死率が中国最悪の省
五、不良分子が資本主義を復活させる
でたらめな利水工事が行われ、 農民は疲弊。反革命集団が捏造され、白旗 (右派) は抜かれた。中央に
上げられる生産順調の報告。餓死率が中国一の省─なにが起こったのか。
第十章 毛沢東への忠誠度と餓死者数は比例する
一、孤児の大量発生 ─雲南省
二、略奪の横行 ─山東省
三、 万人坑 ─貴州省
四、香港への逃散─広東省
五、偽りのパレード─広西チワン族自治区
六、豊穣の地の飢饉 ─江蘇省
七、量産される犯罪者 ─青海省
八、毛への忠誠が飢餓を生む
雲南、山東、貴州、豊穣の郷・江蘇省……広東省からは香港に難民がなだれ込む。飢餓はどの省でも起こっ
ていた。しかし、死亡率には大きな差が。それは、地方幹部の毛沢東への忠誠度に比例していた。
第十一章 危機に毛沢東はどう対応したか
一、毛沢東が修正を始める
二、 一時しのぎの責任田
三、都市人口を削減し農村へ
四、食糧があっても大量の餓死
五、食糧を海外に輸出していた
六、責任を天災とロシアに転嫁
七、絶対的な権力は必ず腐敗する
八、毛沢東の王侯生活
さすがの毛沢東も各地の惨状に気がつき「大躍進」 の修正を始める。しかし、 幹部たちは、 毛沢東は本
音では修正の必要はないと考えていると忖度した毛の 「自己批判」 にもかかわらず「左傾」 は止まらず
第十二章 「会議政治」─毛沢東独自の権力奪取法
一、中国最後の皇帝・毛沢東
二、毛ひとりが生活と資源を統制する
三、武力で守られる極権政治
四、「会議政治」 で権力を奪う
五、制度を修正できない致命傷
会議を主宰し、一方的に重大事項を決定する。毛沢東の意志を周知させるツールが会議であった。─法制化
・秩序化されず、誰も反対できない制度。議会政治と対極にある「会議政治」をフルに活用。毛は権力を奪
い、独裁を維持していった。
第十三章 劉少奇の台頭と失脚─文化大革命まで
一、翳りさす毛沢東の権勢
二、その名は餓死者とともに刻まれる
三、鄧小平を警戒せよ
四、毛沢東、 必死の巻き返し
五、高まる劉少奇の声望
六、劉少奇を小指一本で打倒する
七、文化大革命にいたる道
『毛沢東 大躍進秘録・関連年譜』
解説 日本語版の成立まで 伊藤 正
急速な社会主義化は頓挫した。大躍進の失敗で、毛沢東の権勢に翳りが見えた。間隙を縫い、政権を狙う実
務派の劉少奇。巻き返しを図る毛の再反攻は、一九六六年、文化大革命へとつながっていく。
主要人物:
毛沢東11893~1976) 湖南省の中農家庭出身。1921年、中国共産党創立大会に参加。35年、長征途中の貴州省遵義で指導権を確立した。49年、中華人民共和国成立を宣言、国家主席に。57年、反右派闘争で知識人らを抑圧したのに続き58年には共産主義化を目指す人民公社など「大躍進」政策を発動、数千万農民が餓死する悲劇を生んだ。66年、後に「十年の災難」と呼ばれたプロレタリア文化大革命を発動、極左的な階級闘争至上主義を貫いた。(もう・たくとう)
周恩来(1898~1976) 江蘇省の富農家庭出身。日本留学から帰国後、五四運動に参加し、投獄される。その後、フランスに留学、中国共産党パリ支部のリーダーとして活動。帰国後、革命運動に身を投じ、長征にも参加。新中国成立後に就いた首相の座を終生守った。毛沢東の極左路線に逆らわず、大躍進期の被害を大きくした。(しゅう・おんらい)
鄧小平(1904~97) 四川省出身。1920年、フランスに留学、周恩来の知遇を得る。24年共産党入党。26年帰国し革命運動に参加。新中国成立後、副首相、党総書記などを歴任。60年代初めの経済調整期に食糧増産のため、劉少奇とともに物質刺激策を導入、後の文革で失脚の原因に。78年、改革開放を提唱、経済発展に貢献した。(とう・しょうへい)
李井泉(1909‾89) 四川省出身。解放後、同省党第1書記として毛沢東を強力に支援、大躍進期には極左路線を推進、深刻な飢餓を招いた。文革初期に実権派と名指され失脚したが73年、中央委員に復活。82‾85年中央顧問委員。(り・せいせん)
柯慶施(1902~65) 上海市出身。同市党第1書記、副首相を歴任。毛沢東を一貫して支持、文革前夜、江青、張春橋ら後の極左四人組と手を結び、劉少奇打倒の準備工作に当たった。(か・けいし)
王任重(1917‾92) 河北省出身。湖北省党第1書記、副首相を歴任。人民公社化を積極推進、毛沢東の信任を得るも、文革で失脚。(おう・にんじゅう)
張春橋(1917~2005) 山東省出身。上海『解放日報』の社長兼総編集。1930年代から評論活動。大躍進期、反ブルジョア論が毛沢東の目に止まり重用される。文革期は極左四人組の理論指導者として活躍したが、毛死後の76年に逮捕、81年、猶予付き死刑を受け獄中で病死。(ちょう・しゅんきょう)
林彪(1907‾71)湖北省出身。抗日戦、国内戦の英雄で十大元帥の一人。大躍進を全面支持、毛沢東の信を得、文革で後継者の地位に。70年、国家主席のポストをめぐり毛の不信を買い、ソ連への逃亡途中、モンゴル上空で乗機が墜落し、死亡したとされる。(りん・ぴょう)
譚震林(1902‾83)湖南省出身。長征に参加した古参党員。56年政治局員・中央書記、59年副首相。大躍進には積極支持したが、文革初期の67年、林彪、江青らの極左主義を批判した「二月逆流」事件の首謀者とされ失脚。73年に復活し、全人代副委員長などを務めた。(たん・しんりん)
賀竜(1896~1969)湖南省出身。解放軍創設者の一人で、十大元帥に選ばれた。毛沢東の忠実な部下として大躍進を積極支持。文革中は不遇だったが、その死後、毛自身が葬儀に予定外の参列をし、遺族を見舞った。(が・りゅう)
朱徳(1886‾1976) 四川省出身。毛沢東と共に井岡山で八路軍を創設した軍最長老。
十大元帥の筆頭。ドイツ留学中に入党。大躍進には賛成したが、毛沢東擁護のためといわれる。全人代常務委員長、国家副主席などを歴任。(しゅ・とく)
羅瑞卿(1906~78) 四川省出身。初代の公安相。彭徳懐事件後軍総参謀長に就いたが林彪の不興を買い失脚。文革初期に飛び降り自殺を図り身障者に。文革では迫害されたが、文革後、総参謀長兼中央軍事委秘書長として復活した。(ら・ずいけい)
彭真(1902~97) 山西省出身。 劉少奇直系で51年以来北京市長。彭徳懐擁護を暗示した戯曲「海瑞免官」の作者をかばったとして毛沢東の怒りを買い、文革開始ののろしにされた。79年に名誉回復、政治局員、全人代委員長を適任。八大長老の一人として影響力を発揮した。(ほう・しん)
劉少奇(1898‾1969) 湖南省出身。革命前は労働運動の組織化に従事。45年、党副主席、59年国家主席と後継者の地位を固めたが、大躍進失敗を修正する調整策で毛沢東と対立、文革の極左路線の標的になった。文革初期に走資派として迫害され、68年に党除名に。翌年、身柄監禁中に病死。80年に名誉回復された。(りゅう・しょうき)
彭徳懐(1900‾74) 湖南省出身。長征に参加した軍長老(元帥)。毛沢東の信厚く、36年に政治局員。朝鮮戦争発生後、中国人民義勇軍の初代総司令官として参戦。帰国後、副首相兼国防相になったが、廬山会議で大躍進を批判、毛沢東と鋭く対立し、党除名になった。文革中、迫害の末、死亡。78年名誉回復された。(ほう・とっかい)
鄧子恢(1896~1972)福建省出身。党中央委員・副首相。農村工作を担当。大躍進期、農業集団化に反する農家経営請負制を支持し、毛沢東から厳しく批判された、65年、副首相を解任。(とう・しかい)
黄克誠(1902‾86)湖南省出身。軍総参謀長だった59年、廬山会議で彭徳懐の人民公社批判に同調し、解任された。78年名誉回復され、中央委員に再選。(こう・こくせい)
陶鋳(1908~69) 湖南省出身。26年入党の古参幹部。文革初期、広東省党第一書記から中央宣伝部長に抜擢、一時党ナンバー4に躍進したが、中央文革小組内で劉少奇、鄧小平批判に消極的と批判され、67年失脚。病没後の78年、名誉回復。(とう・ちゅう)
習仲勲(1913~2002)陝西省出身。28年入党の古参幹部。建国後、党中央宣伝部長、副首相を務めたが、62年に反党活動事件をでっち上げられて失脚。76年、広東省党第一書記として復活。外資導入による経済発展を提唱、経済特区構想の基礎を築いた。次期総書記に内定の習近平政治局常務委員は息子。(しゅう・ちゅうくん)
李富春(1913‾75) 湖南省出身。政治局員兼副首相。計画経済の専門家で、河南省の信陽の調査報告を毛沢東に送り、集団化の行き過ぎを指摘。(り・ふしゅん)
陳雲(1905~95) 上海市出身。党の経済政策の権威、保守派の重鎮。計画経済論者で市場経済は鳥かごの中でのみ羽ばたかせる「鳥かご経済論」は有名。大躍進期はより現実的な経済政策を提言、毛沢東の性急な共産化に警告した。毛沢東以後は、鄧小平の最大のライバルになり、改革開放にブレーキをかけた。副首相など要職を歴任。(ちん・うん)
薄一波(1908‾2007) 山西省出身。改革開放期の八大長老の一人。大躍進期には中立の立場をとり、改革開放は肯定しつつ、行き過ぎに目を光らせ続けた。副首相など歴任。回想記を執筆、貴重な証言を残した。(はく・いっぱ)
胡喬木(1915~92) 江蘇省出身。党の理論指導者。新華社通信社長、党中央委員を経て中国社会科学院院長大躍進期には、湖南省で人民公社、共同食堂の調査に従事。こ・きょうぼく)
胡耀邦(1915‾89) 湖南省出身。党主席(後に総書記)。総書記辞任後に急病死、天安門事件の引き金になった。大躍進期は冷静に事態を見ていたが、60年代初めに調整策が始まると鄧小平とともに、現実的政策を促進。文革で鄧小平と失脚の運命を共にした。(こ・
ようほう)
趙紫陽1919~2005)河南省出身。広東、四川両省の党第一書記を務めた後、1980年、首相に。87年、総書記に就くも、89年、天安門事件で失脚、以後死去するまで自宅に軟禁。大躍進期に雲南省の食糧方法隠ぺいを暴露、広東省では食糧不足解決のため、自留地、自由市場の復活など「三自一放」策を奨励。安徽省の万里第一書記とともに、改革開放の初期に農業改革を行い、農村を活性化した。(ちょう・しよう)
潘復生()河南省出身。同省党第一書記。大躍進期、日和見主義の代表として右派批判の全国キャンペーンの標的に。(はん・ふくせい)
呉芝圃(1906~67)河南省出身。農民運動講習所で師事して以来の毛沢東の熱烈な支持者。潘復生失脚後、同省第一書記に。後に大量の餓死者を出したことを自己批判するも処分されず。(ご・しほ)
張樹藩()河南省出身。同省信陽地区の専門員(行政責任者)。飢餓問題の解決のため、農家生産請負制を試行、食糧の強制拠出を拒否、農民に分配した。(ちょう・じゅはん)
張凱帆(1908~?) 安徽省出身。同省副省長時代、農村の実情を視察し、大躍進政策に強く反対、共同食堂の解消や自留地の返還を主張し党籍を剥奪され、迫害された。廬山会議で毛沢東が日和見主義者と攻撃した。(ちょう・がいはん)
曾希聖(1904~68) 湖南省出身。山東省党第一書記。共同食堂の廃止、責任耕作制の実施を毛沢東ら指導部に進言した。(そう・きせい)
席道隆() 山西省出身。甘粛省通渭県党書記。抜擢され党中央の大会に参加、大躍進の諸政策を忠実に実行、一万人以上の農民を餓死に追いやった。(せき・どうりゅう)
王永成() 山東省昌楽県党書記。政府に食糧の緊急分配を要請、急場をしのぐためサツマイモ、カボチャの栽培を呼びかけ、多数の農民を救った。(おう・えいせい)
江青(1914‾91) 山東省出身。毛沢東の4人目の妻、元女優。文革中、極左派のリーダーとして活動。毛の死去1カ月後に逮捕され、81年に猶予付き死刑判決。北京北郊の監獄で自死。(こう・せい)
康生(1898‾1975) 山東省出身。「中国のべリア」の異名をとる特務機関の最高責任者。毛沢東の信頼を得、73年には党副主席に抜擢されたが、死後林彪・四人組裁判の被告にされ党籍を剥奪。(こう・せい)
陳伯達(1904~89) 福建省出身。毛沢東の元政策秘書。毛沢東の信任を得て、69年の第9回党大会で躍進したが、国家主席問題で林彪に接近、70年には失脚。(ちん・はくたつ)
李鋭(1917‾)毛沢東の元秘書で、スピーチライター。廬山会議で彭徳懐に共感したことから批判される。党中央組織部副部長を最後に引退。89年に出版した『廬山会議実録』は名著として名高い。(り・えい)
周小舟(1912‾66) 湖南省出身。同省党第一書記。廬山会議で彭徳懐を支持し失脚。広州で自殺。(しゅう・しょうしゅう)
王光美(1921‾2006) 北京出身。物理学者。劉少奇夫人。文革前、河北省の桃園の農場を視察した経験を講演。毛沢東夫妻の警戒心を招く。文革開始早々批判され、12年間獄中にあった。(おう・こうび)
内容説明
当時若い学徒として、養父が餓死したにもかかわらず、「大躍進」の理想を信じた著者。89年の天安門事件を契機に、新華社記者の特権をいかし、中国17省の公文書館の内部文書や当時の幹部らへの取材を重ねて、浮かび上がってきたものは、毛沢東の独裁とそれに追随する官僚機構の、悲惨なる失敗であった。各省ごとの被害の差はどこから生じたのか。失政に抵抗する勢力はなぜ、潰されたのか。飢餓の最中にも、海外への食糧輸出が続いていたのはなぜか。毛沢東は悲劇をいつ知ったのか。周恩来、〓(とう)小平、劉少奇、彭徳懐、林彪ら建国以来の幹部たちは、どう動き、何を発言したのか。現実を重視する「実務派」と左派政策をテコに独裁体制を築こうとする毛沢東との間で振り子のようにゆれた共産中国の現代史。その「権力闘争」のなかで今日まで続く中国の国の形が形成されていったことを鮮やかに描き出す第一級の歴史書。
目次
永遠の墓碑
モデル地区で何が起こったか
周恩来は、なぜ毛沢東を止められなかったか
偉大なる実験、公共食堂
五つの風が吹き荒れる
来年の種籾まで拠出する
彭徳懐を罠にかける―廬山会議
毛沢東よりさらに左を行く―四川省
所有という解毒剤―安徽省
幻の反革命集団―甘粛省〔ほか〕
著者等紹介
楊継縄[ヨウケイジョウ]
1940年、湖北省の農家に生まれる。清華大学卒後、新華社入社。在社35年。同社高級記者(局長級)を経て、政治改革への積極的論調で知られる月刊「炎黄春秋」副社長。中華全国新聞工作者協会理事。1950年代末から60年代初頭にかけ、毛沢東の発動した「大躍進」政策の失敗で数千万人の農民が餓死した実態を10年の歳月を要して取材、執筆。記者生命を賭け、香港で『毛沢東 大躍進秘録』(中国語原本『墓碑』)を2008年に刊行
伊藤正[イトウタダシ]
1940年、埼玉県春日部市生まれ。東京外国語大学中国語科卒。共同通信社に入社。香港、北京、ワシントンの特派員、外信部次長、論説委員長を歴任。共同通信時代は、二度の天安門事件を現地で取材。中国報道の第一人者。2000年、産経新聞社に移籍し、中国総局長。現在は同社嘱託。2009年、『〓(とう)小平秘録』により、日本記者クラブ賞を受賞
田口佐紀子[タグチサキコ]
1943年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学文学部英文科卒。1970年代初め、マラヤ大学社会人学級で中国語を学ぶ。1984年から2年間、北京外文出版社日本語組の専門家として勤務
多田麻美[タダアサミ]
1973年、大分県生まれ。京都大学文学部卒業、同修士課程修了。専攻は中国文学。2004年よりフリーランスのライター、翻訳者に。新聞、雑誌、ウェブサイトなどに北京や中国の文化をめぐる記事やエッセイを発表(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
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