内容説明
鏡に映るのは誰の顔か?人間は神に似せて、神の“似像”として造られた。謎のように、おぼろげに、互いを鏡として映し合う私と神、そこに、近代的自我の淵源を探る。
目次
第1章 鏡を通して、謎において(愛の賛歌;鏡を通して、謎において ほか)
第2章 風変わりな他者(鏡のなかの顔;無気味なもの ほか)
第3章 回帰(『告白』という書物;ミラノでの回心 ほか)
第4章 神の似像(我々に似せて;類似 ほか)
著者等紹介
富松保文[トミマツヤスフミ]
1960年徳島県生まれ。北海道大学大学院文学研究科修士課程哲学専攻修了。現在、武蔵野美術大学教授。専門は哲学
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感想・レビュー
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またの名
12
闇の勢力に覆われた世界から光の粒子を救い出すため遣わされたノアやゾロアスターに仏陀、イエス、パウロら預言者とその最後の完成者マニを讃える新興宗教っぽいマニ教の他、キリスト教内の対立派閥と論争した教父。こうした哲学史的宗教史的側面は深堀せずに、「私って何?」という哲学入門の定番切り口を素材にアウグスティヌスの思想へ接近。今私たちは鏡におぼろに映ったもの見ているに過ぎない、と語る聖書の一節から脱け出して虚像でないものを目にすることはできるのか、そのとき何が見えるのか、今見ているのは何か、と尽きせぬ問いが噴出。2018/02/02
misui
2
キリスト教の浸透にともなって神が個人の意識のうちで捉えられ、それによって「個としての個」「自我」が成り立つ…ということをアウグスティヌスの思想に読み取り、特に「愛の讃歌」(コリント書)中の鏡の比喩を使って見ていく。はたしてこれがアウグスティヌスの思想の核かと考えると留保がいるが、鏡の映像と実体のずれに自己と他者の隔たりを見、そこに神の顔を透かし見ることで「私とは何か」という問いが開かれるという、それ自体は面白かった。「あなたを愛するとき、私は何を愛しているのでしょうか。」2020/07/24
はまさき
2
ウィキペディアと合わせて眺めて調度よい印象。著者は、アウグスティヌスの思想を、内省性の発見として要約する。鏡像認知を絡めた他者論、ないし自己認知の発生論の側面は、いまとなっては旧びた流行という印象。むしろ、自伝的記述が創世記を要請する(私が始まることの起源としての世界創出の瞬間)という『告白』理解や、キリスト教が国教としての地位を得ていく渦中の生を生きたアウグスティヌスという位置付けの仕方が、本書の読みどころか。不馴れな何かを馴染みの何かに擬えて処そうとする認識体制を転倒せよ、と述べる箇所は、気に入った。2016/12/27
ミツキ
2
アウグスティヌスの哲学に初めて触れたが、私の元来の関心と近い内容であることもあって非常に知的刺激を受けた。このシリーズはその名に違わず、たしかに哲学の本質が表れていると感じた。揶揄を込めて言われる“哲学学”などではなく、表題の哲学者に則しながら著者自身の哲学がはっきりと示されている。手に取りやすい文量ながらその中身は存外に色濃い。2014/06/12
ぼけみあん@ARIA6人娘さんが好き
2
内容を知っていれば買わなかった。アウグスティヌスをダシにして自分を語るタイプの本で、その手法は否定しないが、この手の本でやるべきではない。また、そうして語られた内容も貧弱で、何れにせよ失敗している。大体、過去の思想家を論ずるに当たって後世の思想の枠組みを当て嵌めるのは御法度のはずなのだが、著者はなぜそんな思想研究のイロハも守ろうとしないのか。私はアウグスティヌスに興味があるので、フロイトについて知りたいわけではない。アウグスティヌスについて知りたい人は読むべき本でない。この叢書の本は読む気がなくなった。2011/12/04