内容説明
大正末期から昭和初期にかけて二度にわたり外務大臣を務め、「幣原外交」とよばれる国際協調政策を推進した外交官は、敗戦後に総理大臣に就任する。「未来永劫」戦争をしないとの「信念」から新憲法に軍備放棄を盛り込んだという著者が綴る貴重な外交秘史。
目次
第1部 外交五十年(朝鮮の思い出;樺太を拾った話;アメリカの排日問題;ワシントン会議;佐分利公使の怪死事件 ほか)
第2部 回想の人物・時代(外務省に入るまで;ロンドン赤毛布;デニソンを憶う;サー・エドワード・グレーのこと;外交調査会の前後 ほか)
著者等紹介
幣原喜重郎[シデハラキジュウロウ]
1872年(明治5)、大阪府生まれ。東京帝大英法科卒業。外務省に入り、1919年(大正7)駐米特命全権大使となり、21年ワシントン会議に全権委員として出席。24年に加藤高明内閣の外相に就任。以後、第一次若槻、浜口、第二次若槻各民政党内閣の外相を歴任し、アメリカの排日問題、対中政策の改善、ロンドン軍縮会議批准等に努め「幣原外交」といわれる親英米政策をとった。31年(昭和6)に政界を引退したが、終戦間もない45年に首相となり、新憲法制定等に携わった。その後、進歩党総裁、衆議院議長等を務め、51年に死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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壱萬参仟縁
26
国際協調政策で知られる幣原外交(裏表紙)。親英米政策(表紙見返し)。日本人の御馳走は山海の珍味を揃えなければ、けち(傍点)といわれる(44頁)。加藤全権の通訳の市橋(倭)君は、スタンフォード大学教授で、アメリカ人と同じように英語を話した。加藤全権は理路整然ゆえ通訳も容易だったのではという(77頁)。個人として、列国と相談し、損害賠償し、謝罪して紛争原因を一掃してはいかがか。蒋介石はそうした。日本も談判を始め、加害者処罰、賠償金支払いをやらせ、南京事件の跡始末をした(127頁~)。2015/08/30
かんがく
13
駐米大使、外務大臣、総理大臣を歴任した幣原喜重郎の回顧録。活躍した期間が長いので、日露戦争から憲法制定まで40年ほどの当事者としての話が載っており、近代史の史料としてとても貴重。濱口との友情、在野外交、大政翼賛会と憲兵の話などが印象的。よく殺されないで戦後まで生き残れたなと改めて思う。2019/01/02
若黎
7
読み物として楽しめました。六義園に住んでいたとか、何度も病気になっていたこととか、いろいろありましたが、震災と戦火で遺贈された書籍や文書が消失されたくだりは、淡々と記載されてありましたが、残念なことだったと思います。 2023/04/02
ピカピカ
2
昭和史で気になった人物。未来から見ると無謀な戦争に突入した日本。でも当時生きていたら「無謀な戦争」と見抜けただろうか。幣原氏は当時にあって客観的に日本を捉えていた印象。一貫して米英協調外交をとる。軟弱外交と批判され政界を退くが、戦後総理大臣となり平和憲法を起草。太平洋戦争について糸をたどると満州事変に行き着き、満州事変は軍人に対する首切りや給与の減額、それらに伴う不平不満が原因だという。一旦軍備を持つと軍事費が徐々に拡大し、その行き着く先を見抜いての平和憲法だったのか。彼が今の日本を見たら何を思うだろう。2019/09/15
しなもん
2
著者の幣原喜重郎は、満州事変までに国際協調路線の外交をした人で、戦後首相を務めました。動乱前の裏話が出てて参考になりました 正式な外交ルートでは、互いの面子を気にして纏まらないので、下話に幣原を通すことが多かったようです 海軍を条約派、艦隊派に割る火種となるワシントン会議で 主力艦の保有比率を英:米:日=5:5:3 とした 。(当時は、敵戦力の七割がないと勝てないとされた) 艦隊派は、対米六割を押し付けたと言うが、その時点では対米5割しか戦艦を保有しておらず、米側の好意的譲歩があったのを、初めて知りました2018/08/11
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