出版社内容情報
隠れ念仏の里の親鸞像、マウイ島で見た無数の卒塔婆、浩々洞で語られた『歎異抄』……孤独なときに現れる、わが心の内の親鸞を語る。
内容説明
「自分は人間として許されざる者である」―心の中にひそかに孤独を抱えながら、二十代を過ごし、やがて三十歳を過ぎた頃、偶然に出会った親鸞の言葉。その時、なぜ私は「ああ、この人は自分のことを分かってくれる」「とりあえず、自分も生きていくことが許される」と思えたのか。「聖人」ではない「生身」の姿を追い続けて半世紀、わが心の内の親鸞を語る。
目次
第1章 親鸞のほうへ(親鸞その人の息づかい;敗戦と引き揚げの体験 ほか)
第2章 異端としての親鸞(マウイ島移民と「白い雪」;子ども好きの「蓮如さん」 ほか)
第3章 他力と悪人正機(日本人には罪の感覚がないのか;近代的な親鸞理解への疑問 ほか)
第4章 親鸞思想の危うさ(『歎異抄』ブームと『愛国と信仰の構造』;日蓮思想と宮沢賢治 ほか)
第5章 親鸞の「情」と「理」(羽仁五郎さんとの対話;「情」と「理」 ほか)
著者等紹介
五木寛之[イツキヒロユキ]
1932(昭和7)年、福岡県生れ。1947年に北朝鮮より引き揚げ。早稲田大学文学部ロシア文学科に学ぶ。1966年「さらばモスクワ愚連隊」で小説現代新人賞、1967年「蒼ざめた馬を見よ」で直木賞、1976年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。著書多数。訳書もある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ネギっ子gen
57
【自分も実はケダモノの仲間入りをして生き延びた、という事実。優しい人間的な人は生き残れなかった。エゴと執着の塊のような悪人だけが、他人を蹴落とし生き延びた……】89歳の五木寛之が、自らの内なる親鸞を語る。新潮講座で語りおろした話に、その他の文章を追加。著者は書く。<これまで多くの本も読んだし、寺にも通い、京都の仏教系の大学にも一時籍をおきました。『親鸞』(講談社)という長編小説も書きました。しかし、いま現在の時点でどうかというと、正直なところ、いまだに親鸞という人の姿がぼんやりとしか見えないのです>と。⇒2023/08/12
おたま
34
五木寛之の新潮講座での親鸞に関する語りをまとめた本。ご自身の、平壌からの戦後引き上げ時、これまで封印してきた過酷なかつ生への執着から行った「悪」に関しても率直に語っている。そこから『歎異抄』における親鸞の「悪人正機」にひかれていったようだ。親鸞は極めて優れた、理論的な宗教活動家であったようだが、それよりも人々の孤独によりそう親鸞にひかれるという。どこか遠藤周作の描いたイエスの像とも重なるように感じた。非常に平明に語られた親鸞像であるが、親鸞への、あるいは『歎異抄』への入門書として手に取るのに適している。2022/04/10
しんすけ
22
鎌倉期を代表する僧に、親鸞、道元、日蓮がいる。 道元や日蓮の思想は難しいけど輪郭は把握できる。だが親鸞はわからない。 五木寛之は、なぜそんな親鸞に惹かれるのだろうか? 面白く感じたのは五木自身が、それがわかっていないと書いていることだ。 そして親鸞に一歩で近づくために『歎異抄』を薦める。唯円が親鸞の考えを歪めたとも云われる『歎異抄』を。 自身の考え方は、どう強弁しても人に示すのは難しい。だが他の眼から明確化されることは多い。そういう意味らしい。 ソクラテスなんか一冊も本を書いてないけど、よく知られている。2022/08/30
まえぞう
22
既に親鸞三部作、全6巻を上梓されている五木寛之の講話をまとめたもので、親鸞に自身の体験や思索から迫ります。歎異抄が、親鸞本人の執筆によるものではないからこそ、親鸞その人がでているのではとされている点が、成る程なぁと思わせます。確かに、論語も「子曰く、・・・」ですよね。2022/04/02
コロチャイ
20
五木寛之を知ったのは、私が16歳のときだった。それは「青年は荒野をめざす」題名に魅かれ読んでみると、これが私のバイブルとなったのである。物語の中に出てくるプロフェッサーが、主人公ジュンを゙諭す言葉「失敗を恐れるな、挫折だけはするなよ」と。そんなわけで親鸞も五木寛之の小説で知ったわけである。私自身は信仰はなく過ごしている。けれど慈悲ということばは、どんな行為あるいは意味があるか、以前からおもうことがあった。結局答えははっきりとでていなかったが、五木がなぜ親鸞に行き着いたか、少しながら理解できた。2023/09/10