内容説明
ひたむきな自然児であるだけに傷つきやすい少年ハンスは、周囲の人々の期待にこたえようとひたすら勉強にうちこみ、神学校の入学試験に通った。だが、そこでの生活は少年の心を踏みにじる規則ずくめなものだった。少年らしい反抗に駆りたてられた彼は、学校を去って見習い工として出なおそうとする…。子どもの心と生活とを自らの文学のふるさととするヘッセの代表的自伝小説である。
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ヴェネツィア
701
中学生の時以来の再読。あの頃は、この小説をどんな風にとらえていたのだろう。その時の感覚は、もう覚えてはいないのだが、おそらくはよくわからなかったのではないかと思う。しかし、その一方で世界的な評価を得ている小説を読んだという満足感だけがあったのではないか。少年期以降、ハンスはどちらに転んでも幸福な生を生きられない、本質的には暗い小説である。ただ、ここに流れる空気や水や光の煌めきの中にある、精神的な透明感には今も強い憧れを抱くし、当時もそうだったのではないだろうか。強い郷愁のようなものを喚起する小説だ。2015/02/06
ヴェルナーの日記
428
この作品を読むと、萩尾 望都の『ポーの一族』や『トーマの心臓』を思いだす(たぶん、知らない人が多いかな)。神学校でのハンスとハイルナーとの微妙な関係あたりが、いかにも……。お受験とか、受験戦争の中で神経をすり減らされて、社会が無垢な少年をスポイルしていく物語が痛々しい。また、この本を読むと、一篇の詩の断片がうかぶ。「何時からだろう。雲ひとつない青空を見上げなくなったのは。何時からだろうか。太陽に照らされて眩しくきらめく水面を見なくなったのは。過ぎ行く時間に追われるようになったのは、何時からだったのか……」2015/02/08
のっち♬
252
周囲からの期待を一身に背負って神学校に合格した主人公が、軋轢と規則により次第に心を押し潰されていく。ひたむきな少年の喜びや悲しみなど心の機微が細やかに綴られ、故郷の自然風景の描写も美しい。趣味の釣りも飼っていたウサギも青春も、何もかも取り上げられて疲弊していく彼を通して、著者は「なぜ心身をすりへらすようなくだらない名誉心の空虚な低級な理想をつぎこんだのか」と辛辣に問いかける。そこには、本来心を豊かにするための教育や宗教が逆に心を踏み潰す不合理への怒りが感じられる。車輪は今日も誰かを運び、誰かを踏み潰す。2017/10/04
kaizen@名古屋de朝活読書会
216
「車輪の下へ」の小説と、ヘルマンヘッセのおいたちの話とを重ね合わせて考えると、親は、子供を決して学校まかせにしてはいけないということを感じました。トリイが書いた「シーラという子」のように、親が子供を傷つけるような場合には、学校が砦になる。「車輪の下へ」のように、学校が子供を傷づけるような場合は、親が砦にならないといけないことがわかった。最後の「あんたとわしもたぶんあの子のためにいろいろ手抜かりをしてきたんじゃ。そうは思いませんかな?」という言葉が辛い。2013/04/30
ハッシー
210
硬質な文章で少年期の葛藤が描かれている。秀才なハンスは権威主義的な教育に強い反発し、不良の烙印を押される。 社会や教育に対する憤慨はやがて自身に向き、絶望感が鬱積する。少年期の精神的な危うさや不安定さが、鬱蒼とした森や川のせせらぎといったノスタルジックな自然描写と対比して描かれている。2016/09/04