内容説明
たとえば「猫または掃除機」と翻訳できる「クリーニャー」という概念をもつ人たちがいたとする。私はそれを思考し語ることはできるが、理解できるだろうか―。語ることと語りえぬものを巡って、相対主義、論理空間と行為空間、私的言語と私的体験、知覚、自由などさまざまな話題に、豊かなアイディアできりこみ、「哲学的風景」を立ち上げる快著。
目次
猫は後悔するか
思考不可能なものは考えられないか
世の中に「絶対」は絶対ないのか
真理の相対主義は可能か
霊魂は(あるいは電子は)実在しうるのか
行く手に「第三のドグマ」が立ちはだかる
ドグマなき相対主義へ
相対主義はなぜ語りえないのか
翻訳できないものは理解できないか
翻訳可能でも概念枠は異なりうる〔ほか〕
著者等紹介
野矢茂樹[ノヤシゲキ]
1954年、東京生まれ。東京大学教養学部卒業。同大学大学院博士課程単位取得退学。東京大学教授を経て、立正大学教授。専攻は哲学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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うえぽん
36
講談社PR誌への連載に詳しい註を付けて、反復重層的に議論が展開された哲学書。ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」に反駁し、論理空間にはあるが行為空間の外にあるもの(猫又は掃除機の「クリーニャー」等)は語りにくいだけだし、論理空間の外にあるが勉強すれば使えるかもしれないものは「今の」自分には語りえないだけだとする。概念主義への反論の中で、動物・赤ん坊と違って大人が言語を持つと言っても、人間も動物で非概念的知覚を持つとした点は、近年の認知心理学の考えにも符合するように思う。2024/05/12
踊る猫
24
なかなか読めなかった。この著者の別の著書『哲学・航海日誌』『心と他者』を読み、そこで掴んだ感覚を頼りに読み始めたら(むろん全てを理解している、などとは言えないが)自然と野矢茂樹の文章のリズムや論理展開、題材のチョイスのセンスなどを把握して読み進めることができた。読書とは頭で文章を理解するというより、こうして身体で感覚を捕まえて読む作業なのかもしれない。野矢の見解も身体感覚と常識を手放さない立場から読んでいけば、そう突拍子もない議論が展開されているわけでもなく読み進められる。ただ、再読・再再読は必要だと思う2021/06/21
Don2
11
たしか大学生の時にこれを読んで、人生観をひっくり返される衝撃を受けた、私の人生最高の1冊。再読。人間は世界を言語によって分節化し、それを組み合わせて語る。こうして張られる論理空間は、目の前に立ち現れる世界を、ある種の定式化に基づき理解させる。こんな道具立てを出発点に、翻訳可能性、真理の相対主義、論理実証主義、行為空間、決定論、などなど、豊かな分析哲学・科学哲学の世界が開ける。個人的な人生の問の一つが、"理解するとはどういうことか"なのだけど、これに取り組む道具立てや見通しを示してくれる。2023/12/15
タカヒロ
10
3度の挫折を経て漸く通読した。感慨深い。易しい語り口ながら、人が世界を語り出そうとするリアルなありようについて、緩やかに繋がるテーマとコラムのような注を通して論じていく哲学書。理解が追いつかないところが多々あったが、「相貌」という概念があまりにも自分の実感に沿っていたことと、一回限りの現実を前提に、「実在とは、語られた世界からたえずはみ出していく力にほかならない」という言葉に感動した。野家啓一先生の過去=物語論に違う光を当てている点も新鮮。これぞ「哲学研究者」ではない本物の「哲学者」だ。2024/08/16
じゅん。
10
1周目では全体の輪郭をなんとなく把握出来た程度だったが2周目には著者の思想にかなり踏み込む読書ができた気がした。 語りは優しいが各章かなり内容が濃く、染み込むのに時間を要した。長い旅を終えた感覚、全てを読み終え、少しながらでも著者の目線に立てたことで、新たな哲学的風景を見ることが出来る。 「…言語は、あるいは言語的に文節化された体験や世界は、非言語的な体験の海に浮かぶちっぽけな島にすぎない」 言語が見せる相貌がどれほどちっぽけなものかを考えさせられた。 2021/03/05