出版社内容情報
「職業としての学問」、「職業としての政治」の邦題で読み継がれてきたウェーバーの二つの講演が、今読むにふさわしい日本語で甦る!「職業としての学問」、「職業としての政治」の邦題で読み継がれてきたマックス・ウェーバー(1864-1920年)の二つの講演が、いま読むにふさわしい清新な日本語で甦る。今後のスタンダードとなる新訳、ついに登場!
なぜ本書は「職業としての」ではなく「仕事としての」という邦題を採用したのか? ドイツ語の原語Berufには、生計を立てることとしての「職業」という意味だけでなく、神からの「召命」や「天職」という意味も含まれる。つまり、この語には「……で」と「……のために」という二つの意味が込められており、「職業」という日本語では一方の意味しか表さない恐れがある。そして、この事実は今日、ますます重要性を帯びている。
第一次世界大戦が末期を迎えていた1917年11月7日の講演「仕事としての学問」では、生きることの意味の不確かさ、学問の基礎づけの不確かさのほかに、大学に就職できるかどうかの不確かさが説かれる。さらに、首尾よく大学に就職できたとしても、優れた研究者が常に評価されるわけではない、という事実がある。つまり、そこには「偶然」という要素が拭いがたく存在しており、単に「職業」としてではない意味をいかにして「学問」に見出せるのかが問われている。この問いは、ウェーバーの生きていた時代以上に、今日「学問」を志す人たちにとって切実な問題と言わざるをえない。
そして、ドイツが第一次大戦で敗れたあとの1919年1月28日に行われた講演「仕事としての政治」でも、かつての名望家が没落し、政治的リーダーの「パーソナル」な要素が強く作用するようになることで、政党政治が不確かになっていく現状が語られている。その結果、理想や理念のためではなく、ポストや利権を軸にして動く「フォロワー」たちが重要になる。これは、「ポピュリズム」が当然のこととなり、さらには「ポスト真実」が言われるようになった今日の状況にこそあてはまる。そうして、ここでも、単に「職業」としてではない意味をいかにして「政治」に見出せるのかが問われている。
古典を読むことの意味は、「今ここ」と決して切り離すことができない。そして、「今ここ」と切り結びつつ生み出された新訳でこそ、古典は読まれなければならない。
仕事としての学問
仕事としての政治
訳者あとがき
関連年表
マックス・ウェーバー[マックス ウェーバー]
著・文・その他
野口 雅弘[ノグチ マサヒロ]
翻訳
内容説明
マックス・ウェーバー(一八六四‐一九二〇年)が晩年に行った二つの講演の記録。長く流通してきた『職業としての学問』と『職業としての政治』の邦題を変更し、単に生計を立てるだけの「職業」ではない学問と政治の大切さを伝える。第一次大戦末期から終戦直後の不安が覆う時代に紡がれた言葉は、この新訳によって初めて「今」に届くものになる。
目次
仕事としての学問(テーマ設定(1段落)
ドイツの私講師とアメリカの助手(2~4段落)
ドイツの大学のアメリカ化(5~6段落)
就職はサイコロ賭博(7~9段落)
研究者と教員(10~11段落) ほか)
仕事としての政治(テーマ設定(1段落)
政治の定義(2~4段落)
レジティマシー(5~6段落)
支配を受け入れる側の理由(7~9段落)
「身分制的」団体と近代国家(10~13段落) ほか)
著者等紹介
ウェーバー,マックス[ウェーバー,マックス] [Weber,Max]
1864‐1920年。西洋近代について考察したドイツの法学者・経済学者・社会学者。比較宗教社会学的な研究、特に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で有名
野口雅弘[ノグチマサヒロ]
1969年生まれ。政治学修士(早稲田大学)、哲学博士(ボン大学)。現在、成蹊大学教授。専門は政治学・政治思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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