内容説明
個性主義芸術の時代あるいは生命主義芸術の時代と呼ばれた一九一〇年代に、彗星のごとく画壇にデビューし、二十二歳で早世した天才画家・村山槐多。彼は生得の詩的才能にも恵まれていた。人生と社会の矛盾に打ち拉がれながらも、野性の生命力の回復を希求する詩魂は、鮮烈な色彩感覚と結びつき独自の世界を構築した。放浪、デカダンスのうちに肺患により短い生を駆け抜けた槐多の詩、散文詩、短歌、小説、日記を精選収録。
目次
遺書
詩
散文詩
短歌
小説
日記(大正二年‐八年)
著者等紹介
村山槐多[ムラヤマカイタ]
1896・9・15~1919・2・20。画家・詩人。横浜市生まれ。京都府立第一中学校卒業。中学時代から文学に熱中、世紀末の耽美主義に染まり詩作にふけったが、画家の従兄山本鼎の影響で画家を志し、1914年上京。小杉放庵家に寄寓。日本美術院研究生となり『湖水と女』『乞食と女』等、院展洋画部を舞台にフォーヴィスム風の作品を発表、異色の作家として注目されたが、結核のため満22歳で夭折。没後刊行された詩文集『槐多の歌へる』『槐多の歌へる其後』は、当時大きな反響を呼び、近代デカダンスの一典型と称された(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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かふ
21
槐多は、文人より画家としてみられるべき人だろう。詩や日記にしても、18歳で眼の病になり、画家としてやっていくのに致命的な事態になったわけである。そこで失明するかもしれない限られた生をどう画家として謳歌していくか?その中でもがきながら生きてきた青春なのだ。初期の詩は叙情的で短歌もその傾向がある。詩は画家である自分自身を奮い立たせる言葉となって、当時日本に入ってきたランボーやポーなどの文学に影響されたようである。詩はそうしたフィクションとしての姿であり槐多というペンネームに現れている。2021/06/25
藤月はな(灯れ松明の火)
9
この前、東岡崎美術館の村山槐多の作品展に行って村山氏直筆の詩や手紙などを見てきたことを思い出しながら読みました。ローマ字で日記が書かれいたところは読むのに時間がかかりました。村山氏の詩は淫猥で背徳的でありながらも絵と同じく、心を燃えつかせるような色彩がまざまざと想起されます。日記、短歌などは村山氏の一途すぎるからの危うさや人が自分を愛してくれない悲しみがつづられており、随分、おセンチな人だったのかと図太い魂の私は思いました。小説は眩惑的且つ耽美で素敵だったのですが「悪魔の舌」が載っていないことが残念です。2011/12/12
yurari
2
22際で夭折した村山槐多。彼の絵は正直好みではないが、詩や小説は色彩豊かかつ、どくどくと脈打つ血管を想起させるような独特のリズムと情感がある。特に小説の殺人行者には度肝を抜かれた。この作品を書いたのは10代だろうか?何という表現力。恋していたお玉さんという女性に宛てた手紙はとんでもなく重く、自分がお玉さんではないことにほっと一息。「あなたの暗なる槐多より」😱2022/01/06
ナリツカ
1
数年前に文学部の講義で紹介されたのをふと思い出して手に取ってみた。若さ故か洗練されきっていないと感じる部分も多々あるが、美への野性的な渇望とでも言うべき激しいエネルギーがそれを補って余りある不思議な魅力を湛えている。妙に印象に残り記憶から消えなかったのもそのためであろう。2021/08/28
matsu2015
1
黄金の小僧、彼のほとばしる情熱。行き過ぎた情熱。若さゆえの情熱。熱にあてられた。圧倒的な熱量。夭折の天才詩人と言われているけれど、絵もいい。政治家の山田太郎氏は槐多の親類になるそうだと聞いたけれど、そういえば山田氏も熱があるなあと思えた。政治に関しては人それぞれだと思うけれど。好きな詩人がたくさんいるけれど、間違いなく一番好きって言えるうちの一人。2021/04/25