出版社内容情報
内山 節[ウチヤマ タカシ]
著・文・その他
内容説明
かつては、日本のキツネが暮らしている地域では、人がキツネにだまされたという話は日常のごくありふれたもののひとつだった。それも、そんなに昔の話ではない。キツネに悪さをされた。キツネに化かされた。そういった話は、いまから五十年くらい前の二十世紀半ばまでは、特にめずらしいものではなかった。…ところが一九六五年頃を境にして、日本の社会からキツネにだまされたという話が発生しなくなってしまうのである。一体どうして。本書の関心はここからはじまる。そのことをとおして、歴史学ではなく、歴史哲学とは何かを考えてみようというのが、本書の試みである。
目次
第1章 キツネと人
第2章 一九六五年の革命
第3章 キツネにだまされる能力
第4章 歴史と「みえない歴史」
第5章 歴史哲学とキツネの物語
第6章 人はなぜキツネにだまされなくなったのか
著者等紹介
内山節[ウチヤマタカシ]
1950年東京生まれ。都立新宿高校卒。哲学者。群馬県上野村と東京を往復しながら暮らし、立教大学や東京大学などで教鞭をとる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
☆よいこ
90
分類210。3類じゃないの?と読み始めたら最終的に歴史哲学だった(著者は哲学者)▽日本人がキツネにだまされなくなった転換の年は「1965年(昭和40年)」だと断定されている。原因は3つ①高度成長の展開②合理的な社会の形成③進学率や情報のあり方の変化▽馬頭観音エピ「山の中には時空の裂け目のようなものがあり、誰かが命を投げ出さなければ埋まらない。馬が山で死ぬところはそういうところ」山入りの風習についてのエピも面白い▽自然=ジネン(オノズカラシカリ)でありネイチャーでは無かった。興味深かった。2007年発行2025/04/30
アキ
64
1965年を境にキツネにだまされたという話が聞かれなくなった。昭和30年代に日本は高度経済成長を実現し経済が中心の社会になり、森林も管理され、いわば日本という社会の変換点であった。しかし本書はそれだけではない歴史の哲学を示してくれている。現代の私たちは知性によって捉えられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介すると捉えられなくなってしまうものをつかむことが苦手になった。現代の充足感の乏しさはみえなくなった広大な世界の欠如にあるのかもしれない。自分が子どもの頃、田舎での山は魔物の棲む世界であった。2019/05/07
shikashika555
56
古来ひとは、恵みと災害をもたらす自然や生き物たちを畏れ敬って暮らしてきた。 働き、子を生し、しかし自らも自然の一部として生きる暮らしの中で ひとはしばしばキツネに化かされていた。 いつからひとはキツネに騙されなくなったのだろう。 社会 環境 産業 教育の変化と共に「化かされる能力」を失ってしまったからではないかと著者は語る。 オカルト紛いの話などではなく、自然や共同体の中で研ぎ澄まされた観察眼と問題処理の在り方が 現代の暮らしでは行き場を失った為と読める。 歴史哲学とキツネをめぐる物語。 超良書。2021/09/09
モリー
49
良い意味で期待を裏切られる内容でした。著者は、1965年を境に日本の山村に起きた変化を、キツネにだまされた話が語られなくなった事実から説き起こします。そして、歴史哲学の深淵な思考に読者を導きます。著者は、こう指摘します。「国民国家、すなわち人間を国民として一元的に統合していく国家は、国民の言語、国民の歴史、国民の文化、国民のスポーツといったさまざまなものを必要とした。(中略)「村の歴史」はそのような歴史ではなかった。」私が知らず知らずに身に着けていた歴史観が大きく揺さぶられました。知的興奮が冷めません。2019/03/20
yamatoshiuruhashi
47
読友さんのレビューで知った本。面白そうなタイトルに惹かれて順番繰り上げて読む。民俗学的な側面を期待していたのだが、そこは外れ。しかし「歴史哲学」という側面からは非常に面白かった。まあ、この人が色々な哲学的思考の果てにたどり着いた結論には、既にそこに住んでいる老翁たちは何気なく達していたのだろうが、「哲学」とは畢竟そういうものだろう。中途半端に生きる(或いは生きてきた)自分には非常に解り易い「歴史」への認識であった。これはこれで大きな収穫。平成最後のレビューに良いものを読めました。2019/04/30