内容説明
人生の中で時間が流れていく、ということの意味を考え現代文明の偏見を脱して捉われの無い自由な自分となる。文化の真の円熟や優雅さは十八世紀西欧にあるとの『ヨオロツパの世紀末』を著した著者が、その最晩年に到達した人間的考察の頂点にして、心和む哲学的な時間論。『時間』を書き上げると残っているものを全部出したと感じる、と述懐した批評家吉田健一の代表作。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
踊る猫
30
バカな戯言と一蹴されると思うが……吉田健一は世界の片隅で行われたこの考察において、世界を救いたかったのではないか。それくらい本書の考察は紙一重で現実と繋がりつつ、半ば崇高な世界に行き着くものとなっていると思う。むろん吉田健一は神には言及しないが、俗世/浮世の憂さや苦しみから我が身を(完全にではないにしろ)引き離し、自分だけの世界に入り込み、そしてそこから私たちにも通じる世界の実相を導き出す。その実相はなんてことはない、時間が流れ私たちが生きるという端的にして不条理な事実だ。その不条理と向き合った知性がある2021/10/29
踊る猫
29
世界の片隅(?)で、日本を代表する知性は孤独に時間について考えていた。しかも、一見すると冗長で観念的な文体に自ら溺れているようで、極めて明晰で意外な角度に思考をくねらせる柔軟な文章で時間と意識と世界について考えていたのだった(いやこの酒豪の書き手は「自ら溺れているようで」という自己満足を揶揄した形容を、「然り」と喜んで受け容れそうで怖いのだが……)。哲学に慣れた目から読むとスキがないでもないが、スキがあるからこそ達人の筆致と唸らせるだけの妙な説得力が曲者の食えない一冊だ。使いようによっては世界観を一新する2019/12/31
しゅん
14
時間は外に流れているなにかではなくて私自身が時間である。1975年に連載された文章が1976年に『時間』として単行本化した後の1977年に吉田健一は65歳で没している。そうした伝記的事実を無化するように本書は生きている。後ろに過去があり前にあるような時間とは関係ないかのように存在している。時間は流れていると同時に静止していてそれは同じことを意味している。論理的にはほとんど意味を追えなかった本書を読む時間は時間そのものの厚みの感触をただただ意識するために存在しているかのようだった。永遠にこの本を読んでいる。2022/12/26
うた
14
吉田健一が語るところの時間は、1分、2分と区分し数え上げるものではなくて、ただそこにたゆたっているものであり、過去も未来もないのである。「未来を思い煩う人は不幸である」と誰かが言っていたが、先のことを考えすぎるあまりに時間を忘れてしまうというのは、吉健にとって不健全極まりない状態だったのだろう。行きつ戻りつが多い評論なので、吉健の著作のなかでは語り口に慣れた人向けである。2018/06/17
pon
5
本書によれば過去や未来といった抽象的な時間は人間が必要のために作ったもので本当はそんなものはなく、流れる時間はいつも現在で、歴史も記憶も正確に意識したときに現在になる。ベルクソンやプルーストを読んでみたくなった。「そこにいなければ我々にはなにもない。もしいればそこにあるものが我々にもある。それが認識の根本であるようであって上の空というのは自分は対象の所まで行かなくてそれをしなくても解ることは解る積りでいることでこれが更に自分は別であることにもなれば少しでも立ち入って考えるのが損であることにもなる。」2016/01/04