内容説明
一八九二年末、オーストリア帝国帝位継承者、皇太子フェルディナントは世界周遊の旅に出た。翌年長崎に到着した彼は東京を目ざすが、その途次、各地で日本文化との出会いを堪能しつつ、のちにウィーン民族学博物館日本部門の礎をなす一万八千点もの美術品等の蒐集も行う。二十一年後、サラエボで暗殺される悲運の皇太子若き日の日本紀行。本邦初訳。
目次
第1章 長崎‐熊本‐下関‐宮島
第2章 京都‐大阪‐奈良‐大津‐岐阜
第3章 名古屋‐宮ノ下‐東京‐日光‐横浜
著者等紹介
安藤勉[アンドウツトム]
1947年生まれ。上智大学外国語学部卒業、同大学院修士課程修了(日独・日欧文化交流史専攻)。日本医科大学助教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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壱萬参仟縁
21
ヨーロッパ人が最初に驚くのは、子供も大人も 身形がまったく同じということらしい(26頁)。 小柄な日本人像だといえよう。 熊本までは人口密度が高かったという(38頁)。 少子化人口減少日本では考えられない時代である。 1892年。 奈良法隆寺や正倉院、東大寺に訪れたようだ。 今の季節は、修学旅行も盛んだ。 「日本人は民族固有の建築様式を 捨て去ろうとしている」(166頁)。 つまり、自分たちの文化を捨て去ろうと。 文明開化だが、これは困ったことである。 自文化への誇りはないのか、という問い。 2014/04/14
Toska
16
サラエヴォに斃れた悲劇の皇太子が、その21年前に(世界一周の途中で)日本を旅していたとは知らなかった。訳者あとがきによれば保守的で気難しい性格らしいのだが、日記の本文から浮かび上がる人物像は意外に親しみやすく気取りがない。鵜飼の見学でエキサイトし、隣の人の膝にコーヒーをこぼしてしまったことまで書き残している。大袈裟な歓迎と警護(これは2年前に起きた大津事件の影響か)にしきりと愚痴をこぼしていて、大帝国の皇儲を務めるのも楽ではないようだ。2024/06/13
kuroma831
11
後にサラエボ事件で暗殺されることになるオーストリア皇太子のフランツ・フェルディナントによる明治26年の日本旅行の日記。10ヶ月の世界一周旅行のうち、約1ヶ月の日本滞在中の日記の翻訳となる。お忍び旅行をしたい、接待も最小限で良いと言ってた皇太子に対し、日本は不平等条約の撤廃に燃えているタイミングであり、文明国アピールに余念がなく、全力おもてなし体制で面白い。2024/02/18
若黎
9
あのサラエボ事件の本人が日本にも来ていたとは知らなかった。訳が読みやすいのか、よかったと思う。2024/10/06
noémi
5
サライェボで暗殺されたオーストリア皇太子フランツ・フェルディナンドは、明治二十六年の夏に約一カ月ほど日本に滞在していた。はるばるこんな島国までと思うと感慨深い。皇太子はなかなか複雑な性格の持ち主で、狷介な人でもあったらしい。しかも伯父の皇帝とは折り合いが悪った。しかし文面を読む限りでは、全く文化や習慣の違う日本を偏見も交えず、的確に理解しているのは驚くばかりで、極めて教養高く聡明な人物のように思える。また、軍事力にも精通しており、日本が将来大きな脅威になることを見抜いていたのは恐れ入る。2012/01/10