内容説明
「わたし」がフルサイズで存在したためしがいちどでもあったろうか。行為の身体的プロセスを忘却し、自己意識からはずすことで成り立つ日常。そのなかの存在の揺らめきを映像・音楽・モード・身体・顔・テクスチュアなど、表面にあらわれるさまざまな事象に現象学的にアプローチし、身近な視角からやさしく解き明かす哲学エッセイ。臨床哲学につながる感覚論をベースとした、鷲田哲学の根幹をなすアフォリズムにあふれる一冊。
目次
1 夢のもつれ(ラヴ・ミー・テンダー;nowhere man ほか)
2 夢のひきつれ(リンパ腺;水中都市 ほか)
3 夢のささくれ(人生観察家―パリでいちばん幸福なひと;鏡のそと ほか)
4 揺らめく像、散らばる音(割れ目の哀しみ―わたしの偏愛ビデオ;過剰であることのもどかしさ―侯孝賢監督『悲情城市』 ほか)
著者等紹介
鷲田清一[ワシダキヨカズ]
1949年、京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。関西大学文学部教授、大阪大学大学院文学研究科教授、同研究科長・文学部長、同大学理事・副学長をへて、現在、同大学総長。専攻は臨床哲学。著書に、『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)、『モードの迷宮』(サントリー学芸賞)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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寛生
3
quite interesting and --even wonderful, i would say... in a way in which i am not sure if Professor Washida hsas written this sort of book, or to say differently, to write in this way, meaning... such as a book on dream... but, here we see, his discussion2012/08/01
amanon
1
その多くが二十年以上も前に書かれたものであることが信じられないくらいに新鮮なものとして読めるのに驚き。ごく短い哲学エッセイを集めたもので、少々難解な文章でもさくさく読めるのも魅力か。とりわけ笑ったのと同時に身につまされたのが、外で飲んで帰りの電車で寝過ごしてしまい、帰れなくなったという失敗談の数々。自分よりも上がいたんだな…と。それから、ロックへの言及があるのも驚き。そういう年代だといえばそうなのだけれど、個人的に意外だったし、内容も悪くなかった。他にもロックについて書かれた文章があれば読んでみたい。2019/09/27
CBF
0
(★★★☆☆) 「わたし」がフルサイズで存在したためしがいちどでもあったろうか。行為の身体的プロセスを忘却し、自己意識からはずすことで成り立つ日常ー。2冊目の哲学エッセイに挑戦してみたけど、難しかった...。特に後半の、音楽やモード、ダンスを引き合いにした論考は、実際の歌手や作品など固有名詞が多く出てきたけど、そもそもそれら自体をよく知らない私には全く歯が立たなかった。 『わたしはほんとうは<わたし>なんぞになりたくなかったのではないか。』2017/10/12
バジルの葉っぱ
0
現代アートや音楽関連のテーマの文章が特におもしろかった。夢のささくれの章の「縮む顔・膨らむ顔」を読み、やはりフランスベーコン展行こう、と心に決めました。2013/04/10
神瀬威彦
0
鷲田清一にはまってしまった。映画・本・舞台などからひろがる思索の世界。2012/11/19