内容説明
縮小社会・日本に必要なのは強いリーダーではない。求められているのは、つねに人びとを後ろから支えていける人であり、いつでもその役割を担えるよう誰もが準備しておくことである。新しい市民のかたちを考える。
目次
第1章 「成長」とは別の途(「右肩上がり」を知らない世代の登場;「右肩上がり」の世代―意識から抜け落ちた未来世代のゆくえ ほか)
第2章 サービス社会と市民性の衰弱(「顧客」という物言い;いのちの世話とその「委託」 ほか)
第3章 専門性と市民性のあいだの壁(専門家主義と市民の受動化;トランスサイエンスの時代 ほか)
第4章 「しんがり」という務め―フォロワーシップの時代(「観客」からの脱却;全員に開かれているということ ほか)
第5章 「押し返し」というアクション―新しい公共性の像(「無縁社会」;ひとを選ぶ社会 ほか)
著者等紹介
鷲田清一[ワシダキヨカズ]
1949年、京都生まれ。哲学者。京都市立芸術大学理事長・学長。大阪大学名誉教授。せんだいメディアテーク館長。専門は臨床哲学・倫理学。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。関西大学文学部教授、大阪大学教授、同大学文学部長、副学長、総長、大谷大学教授をへて現職。著書に『分散する理性』『モードの迷宮』(以上2冊でサントリー学芸賞)、『「聴く」ことの力』(桑原武夫学芸賞)、『「ぐずぐず」の理由』(読売文学賞)など多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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sayan
39
先日読んだ書籍「社会のしんがり」は本書の反リーダーシップ論=皆の安全を確認する役割=しんがりを必要とする著者の考えに拠る。直感的な読了後の感想は、5章からなる本書は「各論納得、総論は消化不良」だ。著者は右肩上がり=(経済)成長時代は人々に安心と期待をもたらし「安楽」の工夫で求められたが、右肩下がりの時代は「我慢」と工夫が求められると言う。それは我慢と共に、眼前の社会課題を個人=市民力の向上を通じた解決を言う。その牽引力として「しんがり」の担い手を求める。火中の栗を拾う個人は多くない理想と現実の乖離が強い。2020/09/25
けんとまん1007
38
鷲田先生が言う反リーダーシップという視点は、そのとおりだと思う。一般的に、リーダーシップという言葉から連想されることは、かなり限定されたものであると思っている。今の、今後のリーダーシップとはを考えるきっかけになる。この国のかなりの部分が、クレーマーになりつつあることには、危惧を抱いている。それに対して、自分自身はどうなのかを考えることから、始めたい。2018/05/20
緋莢
19
右肩上がりの望めない現在の日本に必要なのは、「しんがり」だ。フォロワーシップ精神に溢れた人が、皆の後ろから「全体への気遣い」へを見せる「しんがりの思想」を考える「反リーダーシップ論」。 2015/12/10
まさこ
16
「請われれば一差し舞える人物になれ」からこちらの著書へ。フォロワーシップとは。◆「専門性と市民性のあいだ」の章は、まさしく考えていたこと。知性の私的使用とは(私のためということでなく)職務(立場)としてのふるまい。これがいかに今を暗く閉塞させているか。原発報道での専門家への違和感。いじめ対応にスクールカウンセラー増員の違和感。皆いち市民として知性を使えれば。◆リスポンシビリティ・・・他者からの呼びかけに「。あら、これ私の役だわ」と引き受ける感じかな。◆代替と代理の違いは考えたことなかった。◆しんがり隊長。2016/10/21
Gatsby
15
いかにも鷲田先生の本のタイトルらしい。『しんがりの思想』。思わず書店でクスッと笑って購入した。巷に溢れるリーダーになるための本や、一方で強いリーダーを求めるメンタリティーにもNo!と言う。実際、船頭が多いと船は山に登ってしまうのだし、リーダーもフォロワーシップがわかっていないと、無理に事を進めたり、フォロワーの心が離れたりするのではないだろうか。ただ、学校では疑似リーダー体験をするのも悪くない。鷲田先生のテンポにのせられて、あれやこれやと楽しく考える時間を与えてもらった。2015/04/15
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