内容説明
大阪市から五條市を経由して渓谷をゆく。たどりついた奈良県十津川村に、筆者は親近感を持っていた。「幕末、十津川の人はじつによく働いた」とある。十津川郷士と呼ばれ、孝明天皇の信任を得、坂本竜馬らと親交をもち、新選組とも戦った。そのわりに明治後に栄達した人はほとんどいない。明治二十二年に大水害で村は壊滅、多くの住民が北海道に移住し、新十津川町をひらいてもいる。ドラマチックな谷間の「街道」がここにある。
目次
五條・大塔村(中井庄五郎のことなど;五條へ;下界への懸橋;「十津川」の散見;天辻峠 ほか)
十津川(十津川へ入る;村役場;安堵の果て;新選組に追われた話;刺客たち ほか)
著者等紹介
司馬遼太郎[シバリョウタロウ]
1923年、大阪府生まれ。大阪外事専門学校(現・大阪大学外国語学部)蒙古科卒業。60年、『梟の城』で直木賞受賞。75年、芸術院恩賜賞受賞。93年、文化勲章受章。96年、死去。主な作品に『国盗り物語』(菊池寛賞)、『世に棲む日日』(吉川英治文学賞)、『ひとびとの跫音』(読売文学賞)、『韃靼疾風録』(大佛次郎賞)などがある(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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chantal(シャンタール)
83
【司馬遼太郎の二月菜の花街道まつり2021@司馬塾】いきなり坂本竜馬の話から始まるこの街道。読んでて良かった、竜馬がゆく!山また山の山の中、全く米も取れない故に昔から免租地であり、その特権を安堵してもらうために時々の権力者に助力してきた歴史。でもそれ故の恩賞をもらったりはしない。まっさんの有名なトークでもそんな豪放磊落な十津川の人たちが語られていた。司馬さんとまっさんが語る町長室の様子が全く同じなのが笑えた。しかし大きな水害のため、北海道へ多くの人が移住した辛い歴史を持つ地でもある。あぁ十津川村!2021/02/03
pdango
64
【司馬遼太郎の二月】はじめて読む『街道をゆく』は、馴染みのある十津川を選びました。十津川が『吾妻鏡』『保元物語』『太平記』の頃から歴史に絡んでいたなんてはじめて知り、司馬節で読む紀行文の面白さに目覚める思い。私の地元・橿原神宮に関する記述も。「橿原神宮などは、ひどく古い伝統の神社のような印象をうけるが、明治二十二年の設立で、それまで神武天皇を祀る神社などは、日本のどこにもなかった。一つの伝説を国家をあげて三十年宣伝すれば古色を帯びるという説がある」…司馬節炸裂!(笑)2018/02/10
molysk
63
奈良県の南端を占める十津川村は、険しい渓谷のなかに集落が点在するのみで、作物の実りは少なく、古来免租の地であった。この権利を安堵されるために、時の権力者に武力を提供してきた。これが十津川郷士であり、古くは壬申の乱、良く知られるのは幕末の活躍であろう。また、その隔絶した土地柄ゆえ、逃亡者潜伏の地でもあった。明治以降は中央権力の統治の下に組み入れられ、交通の整備で経済のつながりを深めていく。司馬はかつて十津川と下界を隔てた険路を進みながら、日本国内でいわば独立を守ってきた十津川の歴史を紐解いていく。2023/07/01
kawa
42
司馬先生が本書を執筆したころは、「秘境」と言ってもよいと思われる奈良・十津川村へ向けての紀行文。都との地政的事情ゆえに、古来から歴史の節目節目に関わりを持った十津川郷の人々と自然環境が描かれる。幕末、孝明天皇が「薩摩藩を黒幕とする公家の岩倉具視によって毒殺されたとされる」と紹介し、その伝聞資料が十津川村に存在すると言う(159頁)。仮に毒殺が本当だとすると明治政府の正当性に疑問符がつく大事件。本当のところは分からず、このまま歴史の彼方に沈んでいくのだろうか?来月、その十津川村を訪ねる予定。2019/08/31
さつき
36
いつか訪れてみたいと思っている、奈良県十津川村。手前の吉野や、その先の熊野には行ったことがあるのですが…やはり秘境ですね。本作を読んで訪れたいという気持ちがより強くなりました。戦時中、徴兵されることになった司馬さんが友人とともに紀伊半島を旅したエピソードが印象的です。当時は兵隊に取られる前に奈良のあたりを歩く若者が多かったそうです。彼らの気持ちを忖度することは私には難しいですが、それだけ日本らしい風景、心に留めたい景色の宝庫だったのでしょう。2016/04/24