出版社内容情報
礼拝される対象から展示されるものとなり,さらに複製技術によって大衆にさらされるようになった芸術.近代に訪れた決定的な知覚の変容から歴史認識の方法を探る挑戦的読解.
内容説明
「複製技術時代の芸術作品」はベンヤミンの著作のなかでもっともよく知られ、ポストモダン論の嚆矢とも言われてきた。礼拝される対象から展示されるものとなり、複製技術によって大衆にさらされるようになった芸術。アウラなき世界で芸術は可能なのか。近代に訪れた決定的な知覚の変容から歴史認識の方法を探る挑戦的読解。
目次
1 テクストの誕生
2 芸術の凋落
3 複製技術というパラダイム
4 アウラの消える日
5 知覚と歴史
6 芸術と政治
7 映画の知覚
8 ミメーシスと遊戯空間
9 触覚の人ベンヤミン
ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」(野村修訳)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
夜間飛行
87
ベンヤミンはマルクス主義の立場から、芸術を未来への駆動力と見ている。そこで問題にするのは、複製技術の登場による芸術の変化…つまり芸術がその唯一性によりまとっていた歴史の重み(アウラ)が、機械のせいで消えていく可否についてだ。草稿の中で彼はデュシャンやダダを例に考察している。あれは観客の受容体験そのものではないか…不変の芸術的価値などなく、芸術は時代の知覚から生み出されるのではないかと。なるほど写真や映画は新しい知覚をもたらし、大衆を解放するだろう。しかしファシズムに利用される可能性もある所に苦みが残った。2019/05/01
翔亀
49
「精読」とあるが、70ページのベンヤミンの論文が主役で、多木の長い解説はやはり付録だろう。短編ながら射程の長い芸術論だ。写真や映画という複製技術の出現は、新たなメディアの登場ということだけでなく、ギリシャ以来の美術などの芸術の意味が根本的に変わったという芸術史上の画期、いや社会のありようが変わったという人類史上の画期をなすと言う。ファシズムの只中、政治に利用されている芸術(特に映画)を救い出さなければならない、という切羽詰った状況で書かれたからこその迫真力がある。現代における芸術の意義に思い至らせる。↓2014/12/25
ころこ
34
ベンヤミンはアウラの消滅を形式の問題ではなく、社会の問題だといっています。ベンヤミンの論文の文意に即するならば、資本主義の隆盛が複製技術の脅威を生んでおり、従来の伝統的価値観を脅かしているということになります。どうやらその価値観のことを、愛着を込めてアウラと呼んでいるようです。自然をみる態度と重なるということからも、ノスタルジーを感じているようにみえました。では、一回性ということにこだわって、アウラの実在性についてあえて考えてみます。ある作品がこの世の中に1点しかないとして、そこにアウラを見出したとします2018/09/22
しゅん
19
版画、写真、映画など複製技術の発達により芸術作品から「アウラ」が失われる、というのはある程度一般化されている本書のイメージかと思う。ただ、改めて読んでみると、「アウラ」は作品に内在するものではなく、鑑賞者が作品を鑑賞するときに抱く「重さ」のようなものとして描かれていることがわかる。同時に、「アウラ」は山脈や枝を眺めている一回だけの体験の中に感じられるものとしても記されている。自然の一回性を、複製技術によって人間が忘却するとすれば、人間が決定的に自然から切り離された時代が20世紀だということなのかな。2017/09/08
ネムル
18
学生の頃に授業で読んで以来、懐かしい。技術の発展と時代の変化のなかで、従来の因習による思考(写真は芸術か否か)を離れ、鳥瞰的な視点から問いを社会に結びつけるベンヤミンの批評は鋭くカッコいい。芸術のアウラが喪失することで、礼拝的な根拠が政治の場に移る、または捏造される。この時代洞察が読みどころの多いテクストで、いまなおアクチュアルな箇所だろうか。しかし、ベンヤミンより多木浩二の文章のが晦渋なのは、如何なものかと思う。2019/10/22