出版社内容情報
20世紀を代表する思想家の主著.フッサールとハイデガーに学んだレヴィナス(1905―1995)は,西欧哲学を支配する「全体性」の概念を拒否し,「全体性」にけっして包み込まれることのない「無限」を思考した.暴力の時代のただなかで,その超克の可能性を探りつづけた哲学的探求は,現象学の新たな展開を告げるものとなる.(全2冊)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
きゃんたか
28
目の前に佇む顔は既に私を超越している。あるいはその悲惨さで、あるいはその貧しさで、顔は私を告発し続ける。そもそもの始まりからエゴイズムの闇に塗れていた私は、顔の啓示に照らされて初めて身元を明かされた。語り語られたことばの存在そのものが、私が孤独でないことの何よりの証。いつから私はことばと手の権能を履き違えていたのだろう。西洋哲学の全体性はこんな私を救えない。ハイデッガーの哲学はアウシュヴィッツに行き着いた。今もまた、どこかの福祉施設で、海を越えたキリスト教国でさえ、全体性の権能は顔を忘れて猛威を振るう。2017/02/25
34
14
誰かがときどきレヴィナスみたいな本を書いてくれないと、思考が安心してしまう!2020/02/19
白義
12
デリダの『グラマトロジーについて』と並ぶ、西洋哲学全体の根幹的批判であると同時に、他者に生かされ、向き合うこと。世界を享受し生きること自体を一番深い地平から肯定する、倫理と愛(というと恥ずかしいですが)の本です。全体性、とは自の元にいろいろなものを同一化していく作用──であり、無限とはいかなる同一化も不可能な、顔として現前し、自己を問い直す他者のことと言えます。前者を確立しようとしてきた西洋哲学とは違う倫理を構想し、いかに他者を迎え入れるか。これがこの本の主旋律と言えます2011/05/21
うえ
9
「自己を批判しようとすることは、じぶんの弱さを発見することとも、尊厳の欠如を発見することとも理解されうる。言い換えれば、敗北の意識とも、咎の意識とも解されることがありうる。咎の意識と理解される場合に、自由を正当化することは自由の証明ではなく、自由を正義に替えることとなるのである。西欧の思考のなかには、尊厳の欠如を敗北に帰着させるような伝統の優位を見てとることができる。道徳的な寛大さそれ自身も、客観的な思考の必要に従属したものと考えられるわけである。そこでは、自由に帰属する自発性は問いただされることがない」2018/08/23
しんすけ
9
レヴィナスのテーマは多元的だ。それは百花繚乱ではない。そのすべてがレヴィナスの倫理学に集約される。 家庭、労働、身体、空間、時間etc。それは人間存在に統一して考えることができる。しかし、そこに至る途は単純ではない。全てが異なる途を歩きながらも、レヴィナスに集約されていくのである。ハイデガーの場合は「存在は過去に起因する」と脳裏に刻んでおけば、さほど困難もなく読める。こんなことを書いたら哲学専門家から怒られそうだが、趣味の哲学老人の戯言である。レヴィナスの場合、そのような脳裏に刻めるものは一切ない。2018/07/19