出版社内容情報
孤高の宗教哲学者ブーバーによれば,世界は人間のとる態度によって〈われ‐なんじ〉〈われ‐それ〉の二つとなる.現代文明の危機は後者の途方もない支配の結果であって,〈われ〉と〈なんじ〉の全人格的な呼びかけと出会いを通じて人間の全き回復が可能となる.対話的思惟の重要性を通じて人間の在り方を根元的に問うた主著二篇.
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
イプシロン
40
感想に困る著作というのがある。『我と汝・対話』はそんな一冊である。――小説であれば、あらすじを語りながら、この部分に心が動いたなどと書けるであろうが、それを感想とは思わない。あの登場人物に好感し、あの人には嫌悪感が湧いたというのも感想ではない。個人的な嗜好は感想ではないからだ。他方、学術・実用書の内容を箇条書きにして説明するこを感想・レビューとは思わない。読めばわかることを書くことに意義を感じないからだ。前者と後者はwebを検索すれば溢れかえっているのだから、今更、私ごときが語るべきでないと思うのだ。2020/11/03
松本直哉
35
西欧語の詩を読むと「人よ」「世界よ」などと二人称で呼びかけるのに面食らう。格変化に呼びかけのための「呼格」を含み、人称代名詞が整備された印欧語の話者にとって「汝」は自然な観念かもしれないが、日本語ではどうだろう。むしろ我々は、我と汝の面と向かう関係に入るのを避けるかのように、二人称での呼びかけをできるだけ使わず「先生」「お母さん」などの役割語で呼ぼうとする。一対一の対話や対決をなるべく避けながら。どちらがいい悪いの問題ではないが、日本語の世界には「我と汝」の関係は存在しないといってもいいだろうか。 2020/10/20
イプシロン
33
それまでの哲学が、「我」という「自己(自我)」を中心に据えて記述されてきたものだとしたら、本著はそうした伝統的な考え方に異を唱えた、画期的な著作といえる。伝統哲学は、まず先に自我があってそれによって他者や世界があると認識されるとした(主客構造による記述)。それとは反対に、まず先に他者や世界があってそれによって我が作られると考えたのが、ポストモダン哲学の立場(従来の主客構造を反転させた)。しかし、両者とも主客の構造から脱することはなく、客体はつねに主体によって創られるという構造を持つ本質に変わりはない。2023/05/11
yutaro sata
29
われ‐なんじは分ける作用が始まる前の、自分も他のものとの関係の網の目の中にいることを指す? そこから分離作用を進めて、周りを対象化し過去化し、自身と分けて扱えるようにしたのがわれ‐それ。 人間はそれなしでは生きられないが、その底に、時間や空間とは関係なくわれ‐なんじがあることを認識すべし、みたいな感じで。 難しくて、3回ぐらい読んだけど、今ここに書いたぐらいの曖昧な、浅い理解しかできなかった。本当はもっといろいろ書いてあるはずなんだが。 自分の理解が育ってくるのを待つ必要がありますね。2024/01/25
chanvesa
27
我と汝という呼応関係に生きることは、真剣に向き合うこと。あまり自信がないけれども、老老介護が行き詰まり結局介護する人が相手を殺してしまう悲劇は、我と汝の関係性の中で何かが行き詰まってしまうことだろうか。「さまざまな〈なんじ〉と交わることによって、〈なんじ〉のいぶき、永遠の生命のいぶきに触れる」(80頁)とあるが、永遠と絶望を分けるものは何なんだろうか?これとは別に「〈自己責任〉は、〈自己〉が、責任を感じて絶対的なものの中にはいって透徹するようになるときのみ、実効性をもつ。」(202頁)という言葉は重い。2015/09/12