岩波文庫
ヒュースケン日本日記 1855~1861

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  • サイズ 文庫判/ページ数 322p/高さ 15cm
  • 商品コード 9784003344910
  • NDC分類 210.59
  • Cコード C0121

出版社内容情報

一八五八年,日米修好通商条約調印の際のアメリカ側全権使節ハリスの通訳兼書記として活躍したヒュースケン(一八三二―一八六一)の日本日記.ニューヨークを出発,日本に向う南方航路の印象を記した一八五五年から,翌年下田に到着,外交折衝や日本での見聞を綴った一八六一年までの日誌で読み物としての面白さも十分に具えた幕末外交史の貴重な記録.

内容説明

1858年、日米修好通商条約調印の際のアメリカ側全権使節ハリスの通訳兼書記として活躍したヒュースケン(1832―1861)の日本日記。ニューヨークを出発、日本に向う南方航路の印象を記した1855年から、翌年下田に到着、外交折衝や日本での見聞をつづった1861年までの日誌で読み物としての楽しさも十分にそなえた幕末外交史の貴重な記録。

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

HIRO1970

98
⭐️⭐️⭐️実家借用本。本年3冊目。下田の玉泉寺に行った事もあり、タウンゼント・ハリス氏は存じていたが、その通訳を務めたヒュースケン氏の事は本書で初めて知りえた。恐らく開国期の最初の日本通であった氏は年齢も若い事もあるがかなり自由に各国の公使館を動き回っており、またその日本語力や優れた見識故に各国公使に重宝がられていたとおもわれる。一時ハリスとの確執もあった模様だが、オランダ語と米語を使いこなす彼に変わりはいなかった。洋夷排斥の時代の流れの中で凶刃の犠牲者となる。私は何故かハリスの方に侍を感じた。2016/01/12

ホークス

34
1853年ペリー来航、1856年米大使ハリス来日。ヒュースケンはハリスの通訳兼秘書で、1861年29歳で日本人に殺害された。1867年大政奉還。本書の魅力は、150年前のオランダ人青年の大局観と皮膚感覚で、異境アジアを冒険する面白さにある。そこには後進国への蔑視と偏見も含まれるが、欧米人の野蛮さ傲慢さをも直視しており信頼できる。我々の感覚に近いのだ。日本が開国する意義を信じ、外国人仲間にも日本人にも好かれる陽性な人だった。ただ彼が描写する日本人は、貧困を差し引いても余りに個人不在で、この点は今も不変である2017/12/28

本の蟲

12
日米修好通商条約を締結し、初代駐日公使となったタウンゼント・ハリスの通訳を勤めた若者の日本日記。序盤、日本に着くまではポエミーな文章にやや辟易するし、到着後は延々と続く交渉の描写となる。「文明」側という優越感と、日本の平和を強引に破っている乱入者の自覚が交互に行き来しているのが興味深い。それにしても交渉役の奉行の板挟みと、幕府の右往左往が哀れ。「外交」「貿易」について「我々は無知なので、あなた方が良いというやり方を信じましょう」って鴨丸出し。悪辣な侵略となってもおかしくなかったが、そうならなかったのは(続2022/02/09

かもすぱ

9
日米修好通商条約を結びにきたハリスの通訳兼書記のオランダ人ヒュースケンによる日記。前半はニューヨークから南アフリカ、シャム、香港などを経て下田に到着するまでの航海記。後半は幕府の役人と条約内容を折衝する交渉記。20代半ばの若者は寄港地で割と自由奔放に動き回り、異世界の様子を印象的に書き留めている。日本に到着してからはハリスとともに根気強く一進一退を繰り返す交渉を行っているが、日本側折衝担当の堀田備中守が幕府と朝廷と米国の思惑の板挟みになっていたようで、心労お察しします。ヒュースケンいい奴。面白かった。2019/04/30

シンドバッド

8
ハリス日本滞在記の補完する内容。 ヒュースケンの磨かれた感性が凝縮されている日記。2016/12/28

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