出版社内容情報
「〈デッサン〉とはかたち(ルビ=フォルム)ではない。かたちの見方なのだ」--親しく接した画家ドガの肉声を伝える美術論。その人柄・技法・芸術に対する姿勢の素描と、ヴァレリー独自の芸術・身体観とが交錯。本書には、幻の初版でのみ知られる、ドガのダンスのデッサン全五十一点を掲載。絵画と思考の自在な往還を再現する初の邦訳。[カラー版]
内容説明
「“デッサン”とはかたちではない。かたちの見方なのだ」―親しく接した画家ドガの肉声と、ヴァレリー独自の考察がきらめく美術論。幻の初版でのみ知られる、ドガのダンスのデッサン全51点を掲載。絵画と思考の自在な往還を再現する初の邦訳。カラー版。
目次
ドガ
ダンスについて
ヴィクトール=マッセ通り三十七番地
ドガとフランス革命
いくつかの話題
一九〇五年十月二十二日
見ることと線を引くこと
制作と不信
馬、ダンス、そして写真
床と不定形なもの〔ほか〕
1 ~ 1件/全1件
- 評価
本屋のカガヤの本棚
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
やいっち
81
「ドガの作品にはバレエを扱った主題、ことに楽屋や練習風景、舞台袖といった一般人では出入りできない場所での場面を描いたものが多い。」それは、「オペラ座の定期会員になってい」て、「座席を年単位で購入する定期会員は、オペラ座の楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが許されていた」からである。稽古はもちろん、『浴盤』なる作品があるように、丸裸での様々な姿も存分に描けたようだ。2022/02/05
NAO
69
1896年1月末、24才のポール・ヴァレリーは、ドガと出会った。それ以降、二人は二十年に及ぶ友情で結ばれていた。37才という親子ほどの年の差があったが、二人にはそのことはあまり問題ではなかったようだ。気難しいことで有名だったドガだが、ときにヴァレリーのことを「天使」て呼び夕食に招待したりするなど、二人は親しい間柄だった。ヴァレリーは、自分自身だけでなく、二人を取り巻く数多くの友人、知人たちを登場させ、ドガの人柄、技法、芸術観、芸術に対する姿勢を明らかにしていく。登場するのは、ドガの親友でヴァレリーの師⇒2022/01/29
藤月はな(灯れ松明の火)
69
ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートでの『千夜一夜物語』におけるバレエ演出を観た。そこで一番、惹かれたのは足の筋肉の美だ。生々しいまでの肉体の実存があるからこそ、地を踏みしめて踊る事に対する悦びが成立していたから。その時に不意にこの本の内容が蘇ってきた。踊り子の人生に興味を抱かず、肉体性へのディテールや床の質感に拘ったドガの観察眼はどこまでの客観的だ。でもドガの絵が無味乾燥にならないのは客観的に描く事で「踊る」という本質を描き切ったからだろう。時折、出てくる慇懃なマラメラとの遣り取りは笑っちゃう。2021/12/12
nobi
58
19世紀末から20世紀初頭、毎週金曜日に優雅な邸宅のサロンに集う人々の談論風発の様子が眼に浮かぶよう。二度の世界大戦を経験する前、芸術を話題の中心にできる幸せな時代ではなかったか。ドガの没年1917年から20年近く経った1936年が初版。とすればこの書はドガへのオマージュであるとともに、その時代その情景へのオマージュとも言えそう。一方で絵画とくにデッサンへの論考は、時代を超えて定立する美しい数式のよう。ただ、そのデッサンにドガは一生苦闘し続ける。“容易さを拒絶し““外見上の優美さや詩情を目指さなかった”。2022/12/20
松本直哉
28
何かを美しいと感じるのは誤解した証拠で、見ることの放棄なのかもしれない。多くの場合人は見るvoirよりむしろ予測するprévoirだけ、見たいと思うものを見ているにすぎない。何ものにも置き換えられない現前を、目の見えない人が何度も触れて確かめるようにして見ることの持続、それがドガのデッサンであった。画家と親子ほどの年の差にもかかわらず親炙した著者の、雑談や寄り道のように見えるのにいつの間にか深い芸術論になっていく筆致の中に、もはや過ぎ去った偉大な芸術への哀惜の念が見え隠れする。大学の原書講読以来の再読。2022/01/15