自由という牢獄―責任・公共性・資本主義

  • ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません。
  • サイズ B6判/ページ数 325p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784000610193
  • NDC分類 361
  • Cコード C0036

出版社内容情報

現代社会を覆う閉塞感はどこからくるのか.大澤自由論の理論的な輪郭が最もクリアに提示される本書は,単行本化が待ち望まれていた「自由の牢獄」「責任論」「〈公共性〉の条件」という3つの重要論考と,資本主義と自由をめぐる書き下ろし論文で構成.――平等や格差の問題の根底にある「自由」こそが,いま最重要の主題として論じられる.

内容説明

二〇世紀末以降の今日、十分に許容度の高い自由な社会に生きているはずのわれわれは、しかし、どこか空虚で奇妙な息苦しさを伴う、ある意味で「過剰な自由」のなかに置かれている。これはどういうことか。大澤自由論の理論的な輪郭が最もクリアに提示される本書は、単行本化が待ち望まれていた「自由の牢獄」「責任論」「“公共性”の条件」という三つの重要論考と、資本主義と人間の自由をめぐる書き下ろし論文で構成。不平等や格差の問題の根底にある「自由」という難題こそが、いま、最もアクチュアルで本質的な主題として論じられる。

目次

第1章 自由の牢獄―リベラリズムを超えて(リベラリズムの時代;自由の困難;身体の所有 ほか)
第2章 責任論―自由な社会の倫理的根拠として(責任の不発化;リスク社会;責任のもう一つの可能性 ほか)
第3章 “公共性”の条件―自由と開放をいかにして両立させるのか(幽霊という敵;現れの空間;公共性の危機 ほか)
第4章 不・自由を記述する赤インク(不・自由を伝える赤インクがない;資本主義における格差問題;形式という剰余 ほか)

著者等紹介

大澤真幸[オオサワマサチ]
1958年生まれ。社会学者。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。著書に『ナショナリズムの由来』(毎日出版文化賞、講談社)他多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

この商品が入っている本棚

1 ~ 2件/全2件

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

壱萬弐仟縁

32
1998年初出論稿から書き下しもある新旧混交作。本書の究極の目標は、自由の概念を解放すること。自由を自由にすること(ⅵ頁)。エンデの寓話「自由の牢獄」。完全自由の可能性が保証されると、自由を制限する限界が欲望された(27頁)。自由は、選択の可能性を前提にしている(28頁)。重要なことは、自らの存在を選択し、引き受ける主体となるためには、どうしても他者による承認を媒介にしなくてはならない、ということ(41頁)。自由は、まさに拘束を条件として可能になる(47頁)。2015/10/21

ゆう。

30
難解でした。自由という名のもとに、何をしても許されるわけではない。それは自由を牢獄へと閉じ込めてしまう。これは、自由という名のもとにある自己責任論と結びついているように思う。そしてそうした自由は他者をも傷つける。では人間の発展にとって自由とは何か。本著はそれについて探求されていたように思った。自由のもつ罪を意識化するなかで自由は人間発展のために欠かせないものだと気づくかもしれない。2017/08/18

ふみあき

24
本書収録の論考「自由の牢獄」だが、学生時代に『アステイオン』という総合誌への掲載時に読んでいて、えらく感銘を受けたのを覚えている(今では著者に限らず人気社会学者には、うさん臭さが先に立ってしまう)。その影響でエンデのファンタジー短編集『自由の牢獄』も読み、こちらは今でも好きな作品。「現代社会の─技術的・規範的に─あまりに開かれた選択肢が、自由を骨抜きにしている」という、リベラリズムの危機を前に現れた二つの敵が、ナショナリズムと環境主義だが、左派の著者としては当然、前者を切って後者と手を組むことを提案する。2022/06/04

めん

8
私の理解程度で、本書の読了を言明していいのか?/•原理的には宇宙が因果関係のネットワークで完全に覆い尽くされている〜だが他方で、自由は、選択の可能性があること、つまり因果的な決定から逃れていること〜•過剰な自由は、言わば人を窒息させてしまうのだ。自由は、むしろ拘束をこそ前提にして可能になる。•第三者の審級が欠落しているときにもたらされる帰結は、自己決定する個人の出現ではなく、全く逆に、自己決定ということの総体的な失効なのである。インフォームド・コンセントを例に挙げたこの所見は、呑み込めた。図書館2018/01/03

NICK

8
個人的な経験なのだが、テレビゲームをやろうとしたとき「どのゲームをやってもいいけど、イマイチ決めあぐねる」となってしばらくボーっとしてしまうことがあった。こうした自由への開かれが逆に呪縛となってしまう逆説。これこそがリベラリズム的な現代社会の抱える「自由」についての問題である。何にも拠らない無記名の自由への意志は簡単に自由の否定への反転してしまう。また逆に第三者の審級による拘束が自由に積極的な意味を与えてくれる。大澤の試みはつまり神なき時代に第三者の審級を再措定するかということなのだが……2015/05/22

外部のウェブサイトに移動します

よろしければ下記URLをクリックしてください。

https://bookmeter.com/books/9295955
  • ご注意事項