内容説明
大航海時代の宣教師たちから、オランダ商館の人々、幕末の外交官、明治のお雇い外国人まで。立場を背景にした強靱な使命感と知的好奇心によって、“内”の視点では気づきにくい日本語の特質を、“外”から鋭く観察して書物を残した。LとRの発音の区別がない、格変化や性・数の別がない!と驚きながらも、辞書や文法書を作って後進のためとし、海外に日本学の種を播いた彼らに光を当てる。
目次
第1章 日本語は国内でどう見られてきたのか―「歌の言葉に里言を当つること、梵経を翻訳せむがごとく」(『あゆひ抄』)
第2章 宣教師言語学の時代―「日本の手紙はきわめて短く、すこぶる要を得ている」(ルイス・フロイス『日欧文化比較』)
第3章 オランダ商館から見た日本語―「古代の史記及び学術も、皆虚妄にして原づく所なく」(フィッセル『日本風俗備考』)
第4章 ヨーロッパの日本学者たち―「複雑な、時には曖昧と思われる日本語の文字」(ホフマン『日本文典』)
第5章 幕末外交官と宣教師の日本語―「辞書または資料的な助けなくしては、日本語を学ぶことがどんなにむずかしいか」(『ヘボン書簡集』)
著者等紹介
山東功[サントウイサオ]
1970年大阪生まれ。2000年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。大阪女子大学専任講師等を経て、大阪府立大学教授。専攻は日本語学(日本語学史)、日本思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ヴェネツィア
289
本書は、主に日本にやって来た外国人(目的は宣教や外交など様々)が日本語をどうとらえていたかを概観し、日本語をより客観的に見つめるための考察である。第1章では、まず内なる視点として本居宣長や富士谷成章らの事績を紹介する。続いては本題である外国人の見た日本語であるが、宣教師、オランダ商館、ヨーロッパの日本学者、幕末外交官と宣教師と時代順に展開していく。私にとって最も興味深かったのは室町末にやって来た宣教師の日本語学である。ほとんど何の情報や資料もないままに彼らは日本語を習得していったばかりか、日本語の⇒2023/07/21
ドシル
13
幕末から明治にかけて、日本には色々な外国人がやってきた!シーボルトやヘボンしかり。 特にキリスト教布教のために来日した宣教師。 布教のために日本語を学び話す人もいた。 そんな外から日本語を見た方々の中には言語学に精通した方もいて、外国人目線で日本語をどう見てどう記録していたのかが、幾人もの人物紹介とともになされていて、かなり面白かった。 「国語」と「日本語」を考えるのに良い本。2019/09/11
satochan
2
標準語とか決まってない時代、当時の日本語は外国人から見てどうだったんだろうか。誰と話すかによって全く違う日本語象が出来上がってしまうんじゃなかろうか。オランダとかかわりがあったのは長崎だから、そこらへんの日本語なんだろうか。明治に入ると多少楽になったんだろうか。本書を読んでそこらへんについて気になった。rとlの区別がない。名詞に性がない。それは日本にいたら考えないことだから、おもしろい視点だと思う。文献だけの研究でできることとできないこと、そういう点についても考えさせられた。ほかの本を読んでみたい。2016/02/14
1
国語史学から日本語史学にしたいという著者の気持ちはわかるが…このタイトルから、私は「外国人は日本語をどう見たのか」に文字が割かれるものと勝手に期待していたが、人物伝の方が多いように感じられ、ちょっと残念。2025/05/11
らーめんさん
1
「国語」という「内」の視点を解明するために、外国人の日本語研究という「外」の視点を見直す、という意図から書かれた本。ここから深めていくべき事項がたくさんあるんだろうなと思う。2015/02/25
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- 和書
- 西洋古典学研究 〈53〉