出版社内容情報
本書は,死海文書の最新の研究に基づき、各分野の一流の学者12人が一般向けに書き下ろした信頼のおける教養書です。
概観-洞穴と学者たち ハーシェル・シャンクス
一 発見
第一章 巻物の発見
ハリー・トマス・フランク
第二章 死海文書の歴史的状況
フランク・ムーア・クロス
二 クムラン・グループとは
第三章 死海文書の集団はサドカイ派から生まれた
ローレンス・H・シフマン
第四章 死海文書の人々-エッセネ派かサドカイ派か
ジェームス・C・ヴァンダーカム
第五章 「最初の死海文書」
五〇年早くエジプトで発見
ラファエル・レヴィー
第六章 エッセネ派の起源
パレスティナかバビロニアか
ハーシェル・シャンクス
三 神殿の巻物
第七章 「神殿の巻物」-最長の死海文書
イガエル・ヤディン
第八章 「神殿の巻物」にみる幻の神殿
マーゲン・ブロシ
第九章 「神殿の巻物」獲得までの裏舞台
ハーシェル・シャンクス
第一〇章 「神殿の巻物」二五〇〇年間の眠り
ハートムート・ステグマン
四 死海文書と聖書
第一一章 ヘブライ語聖書のテキストの背後にあるテキスト
フランク・ムーア・クロス
第一二章 死海洞穴からの洞察
フランク・ムーア・クロス
第一三章 神の子らが人の娘たちと戯れたとき
ロナルド・S・ヘンデル
五 死海文書とキリスト教
第一四章 死海文書とキリスト教
ジェームス・C・ヴァンダーカム
第一五章 ルカ福音書の幼年物語と死海文書
ハーシェル・シャンクス
第一六章 洗礼者ヨハネはエッセネ派か
オットー・ベッツ
六 死海文書とラビ・ユダヤ教
第一七章 新たに判明したパリサイ派の像
ローレンス・H・シフマン
七 銅の巻物
第一八章 銅の巻物の謎
P・カイル・マカーター・ジュニア
八 死海文書の復元
第一九章 死海文書断片をつなぎあわせる
ハートムート・ステグマン
九 論争
第二〇章 死海文書編集責任者ストラグネルのインタヴュー
アヴィ・カッツマン
第二一章 死海文書にまつわる沈黙と反セム主義
ハーシェル・シャンクス
第二二章 ヴァチカンは死海文書研究を抑圧しているか
ハーシェル・シャンクス
死海文書のすすめ 池田 裕
注記
執筆者紹介
索引
訳者あとがき
概観-洞穴と学者たち
ハーシェル・シャンクス
死海文書の発見は、聖書研究における二十世紀最大の画期的事件といえよう。混迷し思惑が乱れ飛ぶさなかに、死海文書は一般人・学者の区別なく万人の想像力をかきたてた。その理由は簡単である。八〇〇を超すテキストの書庫は、キリスト教とラビ・ユダヤ教双方が出現した二〇〇〇年以上前の重要な時期に解明の光を直接投げかけるのである。
紀元七〇年、ローマはエルサレムとその神殿を破壊した。その年は言うなれば、ラビ・ユダヤ教と初代キリスト教を学ぶ者の前に、厳然と立ち塞ぐ壁となってきた。七〇年より前の年代に行こうとしても非常に難しかった。神殿がまだあった時代に影響力を競い合っていたさまざまなユダヤ教のグループの中から、七〇年を過ぎて独自の規範的ユダヤ教が現れた。今日ラビ・ユダヤ教として知られているものである。紀元七〇年の惨劇を生き残ったあともう一つだけある「ユダヤ教」の形はキリスト教であり、変容し、言うまでもなく西洋社会を支配するようになった。
しかし、ラビ・ユダヤ教の紀元七〇年後の文献のうち最も早いミシュナーでも、その年代は紀元二〇〇年頃とされる。パウロの書簡はローマによるエルサレム破壊の前に書かれてはいるが、他のキリスト教文献は(おそらくマルコによる福音書を除いて)、破壊後のものである。これらの二つの大きな運動-ラビ・ユダヤ教とキリスト教が、紀元七〇年前のユダヤ教の極めて雑多な動きの中からどのように生まれてきたか、学者たちの理解が阻まれてきたのはこうした理由である。ラビ・ユダヤ教とキリスト教が、七〇年以前のユダヤ教の土壌、それも同じところからどのような経緯で発展したのだろうか。
現代に入って、死海文書は突如我々の前に現れ、後世の編者自身のイデオロギーや偏向にゆがめられていない、八〇〇を超える文書の広範な集積が、七〇年より前のユダヤ教に直接の光を投げかけるものとして学者たちに差し出された。死海文書登場によって、この二つの主要な宗教運動が形成される段階で進展していく様子がより明瞭に理解されるようになるだろうという見込みがたっている。しかし、その見込みはいまだ完全実現には程遠いのであるが。
「死海文書」という用語は不明確である。狭い意味では、死海北西岸のワディ* ・クムランにある一一の洞穴で発見された文字の記されたものを指す。しかし、学者たちは死海に沿った他の近隣地区、ワディ・ムラバアト、ナハル+ ・ヘベル、キルベト・ミルド、時にはマサダさえ含んだ地点からの写本も含めることが多い。時々は、エリコの北方、ワディ・ダリイェーで見つかった文書も含む。しかし、本書においては、大方の場合、死海文書を狭い意味で論じていく。つまり、ワディ・クムランの一一の洞穴から出土した文書である。近くの場所(マサダを除く)から見つかった文書は、ワディ・クムランの出土文書とは異なる時期にできたとされており、そのために、まったく別種の問題を提起することになる。ワディ・クムランの写本を扱うだけでも、一冊の本はできてしまうはずである。
また、「巻物」という用語の意味に問題がある。最初の七つの巻物と他の文書の破片は、一九四七年、ベドウィンの羊飼いたちが洞穴の中で発見した。その後、ベドウィンと考古学者たちは写本をもっと見つけようと、他の洞穴を捜し回った。一九五二年から一九五六年の間に、ワディ・クムランで、文字の記された物があった一〇の洞穴が新たに発見された。(「文字の記された物」と書くのは、一一の洞穴のうち一つは文字の記された小さな陶片-オストラコンしかなかったためである)。これらの洞穴は、その後、一から一一まで数字がつけられたが、数百の写本が結局出土した。しかし、そのうちのほんの一握りだけが無傷の巻物である。無傷という言葉の示す範囲によって数が違ってくるだろうが、第一洞穴の七つのほぼ無傷の巻物に加えて、三つから五つのほぼ完全な巻物が取り出された格好になる。残りはただの断片である。そのため、もしその断片になった状態を理解していなかったら、こうした文書を巻物というふうに説明するのは少々誤解が生じるもとになるかもしれない。そうした断片はかつては巻物だった。しかし、現在残されているものは、単なる切れ端、小片であり、その大きさは爪ほどもないことが多い。
学者たちは一一の洞穴から八〇〇を超えるさまざまな写本があることを確認した。そのうちにはほんの一つの断片しかない巻物も幾つかある。その他の巻物は多くの片が見つかっている。断片が大きいケースもあるが、あとは非常に小さいものばかりである。そういう具合だが、こうした切れ端は我々に大変たくさんのことを語ってくれるのである。
たしかにこれらの巻物は、古代の重要な蔵書が今日まで残っていたものなのだが、どこから来たのか、誰が書いたのかは異論が尽きない。近くにある居住地(その跡はクムランと呼ばれている)で書かれたと言う学者もいる。その文書群は、ローマがエルサレムを攻撃し、紀元七〇年、ついに都を破壊したときに、保管のためにそこから運び込まれたものにちがいないと主張する者もいる。どちらの場合をとっても、クムランの写本はその当時の広い範囲にわたるさまざまな蔵書を構成しているのはまちがいない。
クムランの文書は大体紀元前二五〇年から紀元後六八年の間に書かれた。紀元六八年というと、近くのクムラン居住地の発掘者によると、エルサレムの攻撃にかかる前哨戦として、ローマがこの居住地を破壊した年である。この年代設定は巻物が記された時期であるが、文書の作成時期はもっと早期のものもあるだろう。本当のところ、死海文書のうちで最も早い巻物は、その関係が論じられることの多い近接居住地が確立する前に実際に記されている。
ユダヤ教の歴史の中で、死海文書が書かれた時は非常に錯綜していた時期の一つに数えられ、曖昧な情報源の中でしかその様子は伝わらない。政体は不安定で、社会の平穏を保証できないことが多かった。暴力がしばしば噴出した。社会の安定を確保する、あるいは破壊する中で、宗教とつながった政治は大きな役割を果たした。紀元前二世紀、中央パレスチナのモディインの出のユダヤ人一族であるマカバイ家が、当時ユダヤ人の国を支配していたシリア(セレウコス朝* )の専制君主アンティオコス四世エピファネスに対して反乱を起こした。最終的に、エルサレムの神殿がマカバイ家の主導のもとに解放が成就した出来事は、今なおユダヤ教のハヌカー祭として祝われる。ユダヤ人の独立国家を求める闘争は実際四半世紀続き、とうとうユダヤ人の支配者によるハスモン朝が確立することになる。マカバイ家の反乱の前にも、ソロモン王が打ち立てたツァドクの子らの一族ではない者たちが賄賂によって、大祭司に任命されていた。この大祭司の地位の強奪状況は、ハスモン朝のもとでも非難されつつ続いた。ハスモン朝の支配者は政治上の権威と宗教上の権威を合体させたため、民衆の間のさまざまな宗教的グループがそれに対して激しく反対した。大祭司の地位が不当に奪われているとみなしてそれに抵抗しただけでなく、ヘレニズムとユダヤ教が独自に統合されたものが採用されている状況に対しても彼らは反旗を翻した。ハスモン朝の後には、紀元前一世紀の中頃、ヘロデ朝が続いた。ヘロデ朝の名前は、最も著名なヘロデ大王(前三七~前四年)に由来する。
ハスモン朝の時代に、ユダヤ教内の宗教的グループが形をとり始め、無数にできた集団は盛んに競合した。このグループはときに宗派と呼ばれる。宗派どうしはその勢力をのばそうとはりあい続けた。中でも一番知られているのはパリサイ派であり、紀元七〇年のローマによるエルサレム陥落で(キリスト教徒以外で)生き残った唯一のグループである。したがって、パリサイ派の思想は、今日まで続いているユダヤ教、ラビ・ユダヤ教の根底になった。しかし、七〇年より前の時期には、幾つものユダヤ教グループが互いにせめぎあっていた。サドカイ派やエッセネ派がその中にあり、ユダヤ人歴史家ヨセフス(後三七~一〇〇年頃)がその記録を残している。
サドカイ派は重要な富裕階級と政治的有力者をおさえている祭司・貴族的集団である。軍事指導者であると同時に外交官の職務も果たした。サドカイ派は自分たちを唯一の正統的祭司であるとも主張し、多くの法的事項に対して明らかにパリサイ派よりも厳格なアプローチをとっていた。残念なことに、サドカイ派は彼ら自身の文献を何も残さなかった。(死海文書の中に反映されてなければという仮定にたっての話だが)。よって、サドカイ派が自分たちのことを記述するとすればどんなふうに書くか、見当がつかない。我々のもとにある記事のうち、最も重要なものはユダヤ人歴史家ヨセフスの著作と新約聖書の中に見られるが、サドカイ派は控え目にあるいは激しく敵対的対象として描かれている。
パリサイ派の内容はもっとよくわかっている。現代に通じるユダヤ人の生活を最終的に形作った人々はパリサイ派である。パリサイ派の名前は「分離した」あるいは「離れて立つ」といった意味のヘブライ語「parush」から来ているようである。しかし、パリサイ派について我々の知っていることのほとんどは、後世のラビ文献によるものである。新約聖書の中のパリサイ派についての言及は、明らかに敵対的であり、そして偏見に満ちている。パリサイ派は民衆の中で最も人気のあったユダヤ教グループであったように思われる。パリサイ派の宗教的法規についての見解はサドカイ派にくらべると穏健でゆるやかであるように普通は考えられているが、常にそうだと決まっているわけでは決してない。したがって、彼らの信念の違いを一文か二文で書き分けるのはむずかしい。しかし、パリサイ派はモーセの成文律法の確かな拡大として口伝律法を認めた。それに対してライバルのサドカイ派はそう認めていない。
エッセネ派はパリサイ派にくらべると小さな集団である。しかし、奇妙なことに、ヨセフスはエッセネ派についてパリサイ派、サドカイ派いずれよりも大変細かく記述している。おそらく彼は風変わりな珍しい行動をとるグループの様子に読者が魅了されるのではと考えたからだろう。その宗派は、入会についての厳しい規則や明確に定まった罰則のあるきっちりした組織が支配している。エッセネ派のグループはエルサレムを含めて国中に住んでいたが、そのうちの小規模のサブグループが死海近くの荒れ地の居住地に住みついた。彼らの生活は律法の厳格な遵守に捧げられた。死海文書の中で見つかった宗派的文書の論争部分から、エッセネ派についてもっと多くの事を知ることができる。
こうした三つのグループだけがユダヤ人社会で活動していたわけではない。他に幾つものグループがあった。たとえば、ハシディーム、熱心党、シカリ党、ボエトス家であり、この時代の終わり頃になると、初代キリスト教が生まれる。
内容説明
知的ロマンとスリルに満ちた聖書と死海文書の世界が身近に。名編集者シャンクスと世界的学者11名が一般に「情報公開」。20世紀最大の考古学的発見・死海文書は、1947年死海の辺で発見された約2000年以上前の宗教団体の蔵書で、聖書や宗派の古文書を含む。出土文書は、欧米で大反響を及ぼし、一般にも多大の関心を呼んでいる。なぜなら、聖書の理解やキリスト教、ユダヤ教の起源にも新しい光を投じるからだ。本書は、最新の研究に基づき、しかも一流の学者たちが一般向けに書き下ろしたもので、日本人の死海文書理解の入門書として信頼でき、かつ読んで知的興味をそそられる。
目次
1 発見
2 クムラン宗団とは
3 神殿の巻物
4 死海文書と聖書
5 死海文書とキリスト教
6 死海文書とラビ・ユダヤ教
7 銅の巻物
8 死海文書の復元
9 論争
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