内容説明
「私は一つしか言語をもっていない,ところがそれは私のものではない」――植民地支配下のアルジェリアに生を受けた〈フランス-マグレブ-ユダヤ人〉の特異な自伝的回想が告げる言語的追放,本来性なき離散する〈私〉の経験.ヨーロッパ近代原理を脱構築するデリダ,その不可能なアイデンティティ・ポリティックス.
目次
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
Ⅴ
Ⅵ
Ⅶ
Ⅷ
エピローグ
註
訳者解説
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
藤月はな(灯れ松明の火)
53
ポルトガル・スペイン語の通訳もしている伯母の圧倒的なパワフルさを見ていて、このパワフルさはラテン系じゃないかと思っていた私は昔、こんな事を考えた事がある。「もし、生まれた時から日本語じゃない言葉をずっと喋っていたら性格も違ってくるのか?」と。自国の言語で話す事は思想やアイデンティティの固定化に繋がると仮定する。でももし、自分の喋っている言語が借りものだとしたら?そしてその言語を使う国の言葉やアイデンティティ、文化を以て翻訳に挑んだとしてもそれは完全に翻訳したと言えるのか。2024/10/27
燃えつきた棒
37
短くて読みやすかった。 でも、おいらにゃさっぱり分からなかった。(なっ、なんじゃこりぁ!) かろうじて最後の訳者解説に救われた。 頼むから誰か「サルでも分かるデリダ」を書いてくれ! これじゃ、おいらにゃ手が出ない。/ 【そしてデリダは続けている─ある言語から別の言語へと、あるいは同一の言語内においてさえも、「シニフィアン」という「道具」ないし「乗り物」が無傷のままにしておいてくれるような「純粋なるシニフィエ」の「運搬」などという事態はあり得ないのだ、と。「記号(シーニュ)」を構成する→2025/08/13
踊る猫
37
本書におけるデリダの語りはよどみなく進むことなく、ときにオルタナティブな話者との対話形式を採ったりしつつスリリングに多層的に声をかさねることで展開する。そこから浮かび上がるのは、1人の人間に与えられた言語が決して自然に・無前提にそうなったわけではなく、むしろ高度な政治性の産物でありそれゆえに人はなんらかのかたちで「屈服」さえしつつ言語を話すという、そんな倒錯した構図を暴くことではなかったか。1人の人間の内部で展開する言語をめぐる政治学をここまで(晦渋にであれ)シビアに暴き立てた作品はちょっとないとも思った2025/01/19
踊る猫
36
ぼくは日本語話者であり、日本人として生きてきたことに苦悩したことはあってもその言葉が自分の母国語として自明であることまで疑ったことはなかった(と思う)。デリダはこの刺激的な書物を通して、まさに自らの中になまなましく巣食う言葉がいかに「異物」でありうるかを問い直さんとしているかに映る。もちろんそれを単にデリダの個人的なストラッグルの産物(ものすごく平たく言えば「生きづらさ」ゆえ)と読むのは礼を欠いているし、面白くもなんともない。「法」が所与のものとして与える言葉やアイデンティティを「ずらす」ことは不可能か?2024/09/05
さきん
25
最近ポスト構造主義にも興味があって読んでみた。岩波文庫は古典でばかり読んでいて、新刊ないかと思ってたら、2024年発行でまだこの装丁で出しているのかとビックリした。内容ははっきり言ってよくわからなかった。アルジェリアに住むユダヤ人でフランス語話者としう視点でベルベル人、アラビア、ユダヤ文化でもなく、宗主国フランスのエリート教育で生きてきた著者のアイデンティティの曖昧さが母語が自分のものではない=そこに帰ることができない=だからといって自己を持っていないというわけではないというハイデガーの哲学に対する2025/02/09
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