ちくま新書<br> 主権者を疑う ──統治の主役は誰なのか?

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ちくま新書
主権者を疑う ──統治の主役は誰なのか?

  • 著者名:駒村圭吾【著者】
  • 価格 ¥880(本体¥800)
  • 筑摩書房(2023/04発売)
  • ポイント 8pt (実際に付与されるポイントはご注文内容確認画面でご確認下さい)
  • ISBN:9784480075468

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内容説明

近年の改憲ムーブメントで連呼された「最終的に決めるのは、主権者たる国民の皆様です!」――私たちは改めて主権者としての自覚が求められ、いよいよ最後の出番に呼び出しがかけられている。しかし、主権とは何で、主権者とは誰なのか? 本書は、神の至高性に由来するこの“取り扱い注意”の概念を掘り下げ、新たなトリセツを提示する。ロゴスから意思へ、神から君主そして国民へ、魔術から計算へ、選挙からアルゴリズムへ――中世神学から現代の最新論考までを包含しためくるめく“主権者劇場”がここに開幕!

目次

はしがき/序章 見取り図──日本国憲法に登場する「国民」たち/第1章 主権者Part1──ロゴスと意思/1 「最終的に決めるのは、主権者たる国民の皆様であります」/改憲論議を振り返る──主権論の〝重さ〟と〝軽さ〟/国民投票の「権利」の 奪?/2 主権についての伝統的理解/主権の三つの相/最高権力の源泉としての「最高の意思力」/3 ロゴスから意思へ/神の至高性と三位一体論──「ロゴスとしての神」とその万能性・永遠不変性/神、理性、意思──トマス・アクィナス/普遍か個物か、理性か意思か──スコトゥスとオッカム/神の意思の絶対性と恣意性/4 至上権争い──神権と俗権の攻防/神学から政治思想へ/両剣論──神権と王権の区別/教皇至上権へ/5 中世の解体と主権論の浮揚/教皇の没落と中世の解体/主権論と「王権の自律」──家族・教会・国家/神を演ずる王──王権神授説の専制化/中世神学の「反転応用」としての主権論/主権と法──至高性を枠づけるもの/6 本章のまとめ/第2章 主権者Part2──忘れられた巨人/1 破壊者=創造者/〝破壊者=創造者〟としての神──大魔神・ゴジラ・宇宙人/2 〝破壊者=創造者〟としての「憲法制定権力」/憲法制定権力とは/〝破壊者=創造者〟としての制憲権/3 主権者をおさえ込む?/超越的規範に訴える──自然法論の系譜と主権者の自己拘束/主権者の出番を少なくする──制憲権の常駐か封印か/主権の独占を許さない──意思主体か代表機関か/4 国民主権論はなぜ受け容れられているのか?/国民主権がはらむいくつかの問題/国民主権論とはどういう企てなのか/5 アメリカの経験から/「人民主権」と「州主権」/チザム対ジョージア事件判決(1793年)/チザム判決個別意見に見る初期アメリカの主権論/連邦法無効宣言危機/奴隷州、自由州、人民主権/南北戦争の遺産──「失われた大義」/6 主権と主権者/主権者の神格化/天皇機関説事件/ヤングスタウン鉄鋼所接収事件アメリカ最高裁判決(1952年)/主権が人格化するとき──ジャクソン補足意見の主権論/主権的人格への帰依か、最後の理性か/主権者は誰でもいい?──尾高=宮沢論争/主権抹殺論?/ノモス主権論の含意/神話の密輸入/7 本章のまとめ/国民主権は解決にならない/では、どうするか/忘れられた巨人/第3章 民主主義/1 原風景としての「民衆支配」/Democracyの原義にさかのぼる/堕落した統治形態の中では民主制がベスト/民主制の本質は〝衆愚〟である/2 〝衆愚〟その1──愚民とエリート/雄蜂と哲人──プラトン/愚民とエリートの分断を超えて/3 〝衆愚〟その2──主権者としての「大衆」/アレントの「モッブ」/「大衆」の登場/平均人の巨大な波──オルテガの大衆論/平均人・普通人の磁場/主権者としての大衆/4 魔術から計算へ/情報環境の今昔/デイリー・ミー→エコー・チェンバー集団分極化──サンスティンの#リパブリック論/集団分極化──デジタル社会の「雄蜂の群れ」・「モッブ」/〝主権者国民〟の分極化・均質化・可視化/魔術から計算へ──「一人一票」制という変換ツール/東浩紀の「一般意志2.0」/熟議と計算の対抗/5 「選挙こそがすべて」……なのか?/すべてが政治、最後は選挙?/選挙の実相──ロンダリングの回路が生み出す時限的独裁/計算結果の専制/6 民主主義という〝利益相反〟/「自己統治」という言葉について/代表制という〝利益相反〟/まずは、あからさまな利益相反をどうにかしよう/7 民主主義の再設計/ここまでの流れの整理/アルゴリズム/くじ引き/国民投票/法の支配/民間法制局?/第4章 市民社会/1 砂川判決再訪/砂川事件とは?/9条の命運(その1)──解消されない憲法上の疑義/9条の命運(その2)──ふたつのオプションの並置/9条の命運(その3)──主権者国民の政治的批判?/2 「主権を有する国民の政治的批判」/「社会の雑音」──田中耕太郎長官との対峙/岸盛一裁判官の場合/富川秀秋裁判官の場合/憲法の正統性危機と国民の批判的活動/3 市民運動の来歴と「動員の革命」/日本の市民運動が熱かったころ/最高裁の〝集団暴徒化論〟/SNSによる「動員の革命」/「動員の革命」の失敗──宇野常寛の問題提起/4 デモの祝祭性と日常性/デモの近未来を考える──〝動員〟と〝人流〟をめぐって/非日常性の強化・洗練と日常性へのはたらきかけ/他者の存在確認と自己の存在証明のためのデモ/つかの間の自由としてのデモ──小田実とG・ルフェーヴル/身体を差し出す──J・バトラーのアセンブリ論/凶兆としてのデモ/5 〝市民社会〟の近未来/アイデンティティ・リベラリズムの陥穽──M・リラのリベラル批判/「市民」という身分の復権/「名刺交換をしないデモ」という「無知のベール」/分人民主主義というコペルニクス的転回──鈴木健の挑戦/近未来の統治/あとがき/日本国憲法 抄録/参考文献/索引

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

buuupuuu

19
主権は国家的意思の究極的な源泉だとされているから、しばしば難しい状況でちゃぶ台返し的に主権者への訴えかけがなされる。しかし著者は主権という概念をかなり危ういものだと考えている。その概念は神の至高性の概念に由来するが、ロゴス的なあり方から意思的なあり方へと姿を変えてきた。主権者は絶対的であるにも関わらず恣意的なものである。また国民主権というときの「国民」が何を指すのか明確でない。それゆえ著者は、主権者の前に、有権者や市民といったあり方について考えるべきだと言うのだが、こちらも楽観視できる状況ではないようだ。2023/05/30

おおにし

18
(読書会課題本)安部さんが昔、「憲法改正について、最終的に決めるのは、主権者たる国民の皆様です」と語っていたが、主権者という言葉の意味を分かって使っていたのだろうか。主権者についてこの本を読めばわかるかと期待したが、予想以上に難しい本で最後まですっきりと意味がつかめなかった。ともかく今後「主権者」という言葉を軽々しく使う政治家がいたら、注意してその意図を探るようにしたい。2023/10/31

月をみるもの

16
国とか企業(「法人」)というヒトではないのに「主体」として扱われるものの意思決定はどのように行われるのか? どっちも結局、どこかに代理人たる個人(元首とか社長とか呼ばれる)がいて、そのヒトの意思を反映してるだけなのか、それとも集団の「一般意思」をなんらかの形で表現する術があるのか? この設問に対して、テクノロジーが解決の方向性を示すという議論には同意できるんだけど、そこで鈴木健(ミソ)と成田悠輔(クソ)を一緒にしちゃってるのが残念極まりない。2023/08/13

奏市

13
難しい部分も多々あったが、スリリングな内容でもあり面白く読んだ。憲法学者による主権、主権者、憲法、民主主義、市民社会等についての考察。国民主権も民主主義も絶対的に正しいものではなく、意外と欠陥多く危険を孕んでおり、改善・メンテナンスを怠るとまずいことになるというのはよくわかった。ワイマール共和国の変遷が示しているように、民主主義は語源を辿れば共和制の堕落形態であり容易に寡頭制、独裁性に移行してしまうと。著者はそれなりな年齢なのに若者の文化やICTにも通じているようでそんな憲法学者もいるのかと意外だった。2024/03/03

千本通り

7
『本書は、主権論を神の至高性にさかのぼり、「ロゴスとしての神」から「意思としての神」への変遷を見て、中世神学を経由し、主権を実体化・人格化する「主権者」が登場するさまを描いてきた』と著者はあとがきで述べているが、簡単に理解できる内容でないことは容易に想像できよう。 しかし考えさせるところは多く、例えばデモクラシー(民主制)とは共和制の堕落した状態で、「民衆支配」という語源は的を射ているとか、選挙とは当選さえすれば何事もチャラになる神秘的なロンダリング回路なのか?と。2024/02/06

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