内容説明
「五月の朝に詩的な《赤いワンピースの娘》に出会って以来、おびただしい数の犠牲者が、人生の暗い波間に、永久に姿を消し去った」……モスクワの新聞社へ持ち込まれた、ある殺人事件をめぐる小説原稿。そのテクストの裏に隠された「おそろしい秘密」、そして読み終えてなお残り続ける「もう一つの謎」とは何か? 近代ロシア文学を代表する作家が若き日に書いた唯一の長篇小説にして、世界ミステリ史上に残る大トリックを駆使した恋愛心理物語の古典。巻末に、江戸川乱歩による評論を収録。
江戸川乱歩――「チェーホフともあろう作家の、こういう作品を知らなかったのだから、われわれの全く気づかない面白い探偵小説が、まだどれほど残っているかと思うと楽しくなる。……探偵小説のトリックの歴史から考えても、相当大きな意味を持つ」。
解説・佐々木敦
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
やいっち
82
チェーホフ作品は、若いころからのファン。文庫に入っているような本はいずれも一度ならず読んできた。ここにきてチェーホフの長編が文庫入り。六月に出たばかり。2022/10/22
NAO
61
若きチェーホフが書いた斬新なミステリ。雑誌の編集長のところに、元予審判事が自作の小説を持ち込んでくる。作品の大半を占める作中作「狩場の悲劇」は、主人公の予審判事の友人である伯爵の森で殺人事件が起こり、予審判事が捜査に当たって犯人を指摘するというもの。小説の探偵が予審判事セリョージャなら、物語の真の探偵は、編集長だ。さらに、最後に作者自身の注釈がついているのだが、これがまたなんとも胡散臭く、複雑な三重構造になっている。登場人物についていえば、元予審判事作の小説の主人公セリョージャが、なんとも鼻持ちならない。2022/12/19
aika
46
チェーホフ唯一の長編小説は、作家の新しい一面を見せてくれました。編集者の「わたし」の元に持ち込まれた、ある殺人事件を描いた小説原稿。赤いワンピースの美しい少女オリガを巡り、小説の主人公・予審判事のカムイシェフ、悪友の伯爵、執事のウルベーニン…醜悪な争いと嫉妬に蝕まれる男たちと、彼らを愚弄するオリガという、卑劣な享楽者達の人間関係の窮屈さに息が詰まりそうでした。原注をここまで真剣に読んだのは初めてで、最後の最後まで背筋がヒヤリとしました。もしかすると、イヤミスの起源はチェーホフにあるのかもしれません。2022/08/02
みつ
29
裏表紙に「作家が若き日に書いた唯一の長編小説にして、世界ミステリ史上に残る大トリックを駆使」とあり、思わず手に取ってしまった。事件の発生は3分の2を過ぎたあたりで、そこまでは複雑で気が滅入る人間関係が延々続くので少々しんどい。作中作がほとんどを占め、最後に原稿を持ち込まれた編集者の語りに戻るという構成、チェーホフ自身の原注のもたらす意味など、何重にもなった仕掛けが後の作品で有名になったトリック以上に唸らされる。(以下間接的なネタバレ)該当ページが後半に集中する原注を照合しながら読むと面白さは倍化するかも。2024/02/23
ぺったらぺたら子
28
唯一の長編で、著者は全集から外したが、後の短編や戯曲で再演されるモチーフがたっぷり詰まった習作と考えてもいい。「ともしび」「かもめ」「頸にかけたアンナ」「犬を〜」「谷間」などが浮かぶ。男女の欲を残酷なまでにえぐり出しているが、本来なら必ず滲み出るやさしい視点や人間肯定、薄明的な希望を欠いていて、そこが逆に一種の解りやすさかも。悪が悪として描かれている単純さというのか。純文学としてはそこが犠牲になってはいるが、だからこそ容赦なく醜さを描けたとも言えるし、推理小説として、またその批評としての大胆な実験もある。2022/07/23