内容説明
戦国期末から江戸初期まで、約一世紀にわたり日本に滞在し、キリスト教の布教を行なったイエズス会の宣教師たち。彼ら西洋人は、日本の権力者をどのように見ていたのか。活動に関する膨大な書翰(しょかん)や報告書に記された「国王」などの語句に注目して分析。権力者の移り変わりを目の当たりにした、実体験に基づく日本国家観、権力者観を読み解く。
目次
西洋人の日本人観―プロローグ/イエズス会の日本情報(イエズス会が伝えた記録/イエズス会書翰の権力者情報)/日本布教開始期の権力者観(ザビエルの「日本国王」観/日本の「国王」とは)/畿内布教期の権力者観・国家観(イエズス会の畿内布教/畿内布教期の権力者情報/権力者に対する表記/畿内布教期の国家観)/イエズス会の天下理解と朝廷理解(信長との出会い/イエズス会の秀吉観/「天下」=君主国)/王権論の可能性(イエズス会の捉えた「王」/日本の王権のかたち)/イエズス会がみた中近世移行期の日本―エピローグ
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
Toska
9
外部者(イエズス会)の視線を通じて戦国時代の日本の権力者像に光を当て、ひいては王権論にまでつなげようという野心的な試み。イエズス会は布教にあたってまず現地の支配者にアプローチする方法を取っていたから、日本でもかなり真面目に情報を収集しており、その観察には見るべきものがある。「日本国王」に官位を与えることで彼らの権威を担保する、という天皇の機能に着目したのは流石。2023/01/28
アメヲトコ
9
20年10月刊。イエズス会にとっての戦国・織豊期日本の権力構造の認識について迫った一冊です。当初は天皇と足利将軍を「日本国王」として捉える比較的単純な認識であったのが、布教を進めていくなかで、実質的「国王」としての戦国大名の存在や、天皇の官位叙任権の意味に気づくなど、しだいに日本理解を深めていく過程が興味深いです。分析は刊本や邦訳本に安易に頼らず、リスボンの文書館の古写本を丹念にあたったもので、丁寧な用語分析をふまえた、平川新氏の豊臣「帝国」論への批判には説得力がありました。2021/06/21
hyena_no_papa
5
久しぶりに快著に出会った!書評は他の方に譲るとして私見を述べたい。日本古代史に関心を持つものとして〝天皇〟の存在を抜きにしてそれを語ることが出来ないが、古代は史料そのものが少なく、天皇という存在の位置づけにしても悩ましい。では、この国における天皇の存在が現在までの長い歴史の間で、どのように推移していったのか?その視点から考えてみるのも一案ではないかと思い、この書を手に取る。著者はイエズス会の膨大な書翰から日本の王権を読み解こうとする。大きく頷くことしばしば。〝連合国家〟という捉え方は刮目すべき。2024/01/15
フランソワーズ
5
宣教師が布教のために書かれた日本の姿。その過程で当然惹起する文化・言葉の違い。その翻訳のための苦悩の跡から、先入観のない同時代人から見た日本の天皇・将軍・大名の実像を読み取ろうとする試み。「国王」「王」「領主」「太守」「部将」等、文献上の語句を地道に拾い出し、検証することによって、とても興味深い事実が明かされました。更にそれを元に、当時の統治の在り方、「王権」までも実に的確に把握していたことに驚かされました。→2021/09/20
kuppy
4
イエズス会が布教のために権力の所在をどのように認識していたのか書簡により読み解く。戦国時代にあって天下の範疇は京都中心の畿内であったこと、その点では三好三人衆や松永弾正、筒井(または比叡山)なども覇者の候補としては当然入っていた。統治権を持っていないのに、ほぼその権威(官職の任命権など)だけで生き残っていった天皇の存在というのは宣教師からしたら異様な存在であっただろう。信長により興味の対象となり、秀吉、家康により追放されるキリスト教は隠れキリシタンとして明治開国まで生き残ったのはある種の奇跡である。2021/10/23
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