内容説明
フランスを代表する哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941年)が残した主著の一つである『物質と記憶』(1896年)については、すでに7種もの日本語訳が作られてきた。そのすべてを凌駕するべく、第一級の研究者が満を持して新たに訳出した本書は、簡にして要を得た「訳者解説」と相俟って、日本語でベルクソン哲学の真髄を伝える、文字どおりの「決定版」である。今後、本書を手にせずしてベルクソンは語れない。
目次
第七版の序
第一章 表象化のためのイマージュの選別について──身体の役割
第二章 イマージュの再認について──記憶力と脳
第三章 イマージュの残存について──記憶力と精神
第四章 イマージュの限定と固定について──知覚と物質。魂と身体
要約と結論
初版の序
訳者解説
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ドワンゴの提供する「読書メーター」によるものです。
内島菫
21
ベルクソンは、事物に対する実在論と観念論が相撲を取っている土俵が同じである地点まで二元論を詰めていく。同様に、「物質」と「記憶」が被っている虚偽を、空間ではなく時間における行為を梃子にはぎとり、心身二元論的な立場から、「心」と「身」の重なりを時間的な行為において見る。それは、デカルトが心身の結合点と見た松果腺のような脳のある部分でもなく、ライプニッツのような予定調和でもなく、違うからこそ同じになり、同じになるのは違うからこそであるという、常に反転し呑み込みあう動的な二元論のように思える。2021/03/21
Bartleby
14
観念と実在の二項対立を避けるため、その中間に"イマージュ"という概念を据え、空間ではなく時間(持続)という別の視点を導入する。物質界と人間、ひいては記憶力を切り離さず連続的に語るその手つきにはほれぼれさせられる。しかし論証は当時の科学的知見に基づいてかなり慎重に行われる。それだけに、その曲がり角のむこうにほの見えるベルクソンの形而上学はよりいっそう美しい。本書は現代の科学的な成果とすり合わせていくことで多様な読みができる本だ。今後も、再読、再々読していきたい。2022/10/12
しゅん
14
世界には物質と記憶力しかない。ここでの物質は、世界に発生する現象すべてと考えてよいだろう。ただし過去はすべて現在するという立場をベルクソンはとるから、ここでの「記憶力」は通常言われる「覚えておく能力」ではない。むしろ、世界から事象を限定し、未来に行為する力である。つまり記憶力とは身体が行動する力であり、言うなれば「自由」のことである。また、知覚は脳や身体ではなく、物から発生する。主体意識を物からの作用として捉えている。人間の主体性を否定しながら自由を重んじる。この姿勢はスピノザと重なるものがある。2021/01/03
いとう・しんご
10
1896年刊。「二つの源泉」同様、随所で参照される当時の心理学等の知見は、今日的には疑問を抱かざるを得ず、理解の妨げとなっているが、その藪をかき分けていくと、精神と物質、記憶と知覚、非延長と延長、質と量、自由と必然の対立を両者の作用・反作用の場である身体における相互性によって乗り越えようとしています。プルーストはベルクソンを熱心に聴講したようですが、「精神は行為の平面と夢の平面という二つの極限のあいだに含まれる中間段階を休むことなく駆けめぐっている」p249と言う言葉に「失われた時」が圧縮されています。 2023/08/01
ひつじ
10
ベルクソンの中で難解の書と呼ばれてるらしいですが、正直かなり読みやすかったです。翻訳もいいと思います。ベルクソンの文章自体が、文脈ごとに意味合いが変化していくような書き方をするので、定義を決めきって読み進められないところはなかなかにイライラしますが、最後まで読んでしまえばそんなに難しいことは言っていないような気がします。大体の雰囲気では、物質論世界も観念論世界も持続している、地続きなものであるみたいなことになりますねぇ。最終的にはどちらの論も、別々の言葉で呼ぶのはナンセンスになっていきます。2021/06/10




