内容説明
「言語行為論」は、ここから始まった。寡作で知られる哲学者ジョン・ラングショー・オースティン(1911-60年)がハーヴァード大学で行った歴史的講義の記録。言葉は事実を記述するだけではない。言葉を語ることがそのまま行為をすることになるケースの存在に着目し、「確認的(コンスタティヴ)」と「遂行的(パフォーマティヴ)」の区別を提唱した本書によって、哲学は決定的な変化を受けた。初の文庫版での新訳!
目次
編者まえがき
第I講 〔遂行体と確認体〕
第II講 〔適切な遂行体のための諸条件〕
第III講 〔不適切さ──不発〕
第IV講 〔不適切さ──悪用〕
第V講 〔遂行体の条件として考えうるもの〕
第VI講 〔明示的な遂行体〕
第VII講 〔明示的な遂行的動詞〕
第VIII講 〔発語行為、発語内行為、発語媒介行為〕
第IX講 〔発語内行為と発語媒介行為の区別〕
第X講 〔「……と言うことにおいて」対「……と言うことによって」〕
第XI講 〔言明、遂行体、発語内の力〕
第XII講 〔発語内の力の分類〕
補 遺
訳者解説
訳者あとがき
索 引
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ころこ
39
前半は遂行的発話を、後半は言語行為の三層構造を考察します。ツリー状に恣意的な分類分けをして、その矛盾を自ら指摘し、無効化することの繰り返しで、正直、まともに読む価値ないかなという印象です。事実確認的発話を遂行的に使うことは誰でも思いつきますし、あえて事実確認的発話をして、遂行的不在によって相手に対して遂行的に機能させるなど、文脈によって意味が変わるのが言語であるということを我々は知っています。有意味な言語だけを扱うことが、窮屈で貧しいことだということを教えてくれたと考えることにします。2019/06/20
かんやん
32
論理学が扱うような真/偽で表される命題(確認体)に対して、発言することにおいて行為することになる遂行体。例、「誓います」「命名する」「いくら賭ける」etc(自分なら、「バーカ」侮辱する、「こんにちは」挨拶する、「表に出ろ」喧嘩を売るなど、思いつく)。真/偽ではなく、適切/不適切を基準にして遂行体をああでもない、こうでもないと分析してゆくのだが、言葉で言葉を分類しテストする錯綜した議論ゆえに辿り辛く、導入される新たな概念や観点も役に立たず、結局、例外が多すぎる。しかし、思考の過程としては面白くもある。2021/08/05
buuupuuu
27
言明と似たような見かけをしながら、事態を記述するのではなく、それを言うことで何らかの行為を行っていることになるような発話もしくは文を「遂行体」として取り上げ、分析しようとするところから始まる。最初は、ラッセルの記述理論のように、遂行体の実態を明示化するような表現が探求されるが、どうやらそれがうまく行かなそうだということになり、途中で発話を行為という観点から考えるという方針に切り替わる。ここで意味行為と発話内行為が区別され、言明は発話内行為に分類されることになる。適切さや含意関係などの話が面白い。2023/11/26
フリウリ
10
この本の哲学史的な意味は知識として知っています。遂行的発話と確認的発話の2分類。そして、発話行為、発話内行為、発語媒介行為の3分類。しかし読んでびっくりしたのは、これらの分類は「さしあたって」提示された概念であり、議論が進むにつれて、次々と覆されていくことです。見立ては明らかに正しい。なのに覆されていく。その理由は、探求の方向性が誤っているから、と考えることもできます。しかし、その誤りがなぜ起きるのかを突き詰めることは、立派なテツガクだと思います。行きつ戻りつの議論が続きますが、おもしろく読みました。82023/07/30
たか
8
難解でした…2019/06/10