内容説明
1924年1月21日、レーニン逝く。極寒の赤の広場をうめる群衆の中に詩人はいた――ぼくは倖せだ。ぼくはこの力の一部分。目から流れる涙さえ、みんなの涙だから。詩人は逡巡の後、革命二百年史の英雄叙事詩を4月に着手し、10月に書き上げる。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
Y2K☮
33
レーニンとスターリンの違いを学びたい。阿部和重が「私の創作はスターリン主義。全てを計画通りに進め、アドリブ的な閃きは採用しない」みたいなことを話していたのを思い出す。レーニンはそれとは違うのか。尤も著者の情熱はレーニン個人に留まらず、共産党という組織に対しても注がれている。彼の中で文章と詩作は社会への奉仕という前提があるらしい。太宰治も「逆行」で「芸術の美は所詮、市民への奉仕の美」と書いているが、マヤコフスキーのニュアンスの方が前向きで力強い。たぶん太宰やフローベールみたいなお坊っちゃんじゃないのだろう。2021/09/04
cockroach's garten
16
ソビエトの指導者レーニンの死後に書かれた賛美歌。レーニン自身がいかに情熱的で民衆側に立ち権威に勇猛果敢に立ち向かったか。マヤコフスキーのレーニンへの感激は止まらない。しかし彼の死後スターリンへ代わると次第に熱が失われ、『風呂』を出版し民衆の為のコミンテルンだった共産党を彼の心血をもって非難し始める。2018/06/01
保山ひャン
1
1924年、レーニンの死を哀悼し、その業績を綴った長編詩。「ぼくら、涙を垂れ流すものか。レーニンは今でも生者の中の生者。ぼくらの知識、ぼくらの力、そして武器」2017/02/20