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内容説明
人はだれしも存在の不条理や不安を抱えながら生きざるをえない。だからこそ、その人生を心底納得して死んでゆくための物語=宗教が必要とされる。親鸞とは、何よりも、「末法」という大転換期にあって、その時代に生きる人々が切に必要とする新しい「物語」を、仏教の中から引き出した人であった。ひたすらに念仏することを説いた法然の教えを伝承し、なぜ念仏すれば仏になることができるのか、人間の真実に照らし、その根拠を明らかにしようと努めたのである。親鸞の手にした「信心」の全貌を、現代に生き生きとよみがえらせる一冊。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
壱萬参仟縁
16
「無意味」ほど、人を蝕むものはない(011頁)。自殺する人や未遂の場合、自分は生きていても社会に何の意味もないといって亡くなっていく人もいる。仏教で強調されるのは「清浄心」(125頁)。煩悩から完全に解放され、自己中心性をまったくもたない心。そういえば、大学院の指導教官は自己チューとか言われたが、そりがあわなかっただけにも思う。「信心(まことのこころ)」とは、世俗の身分や境遇の違いを問題とせず、ひとしく「ともがら」として仏道を歩む仲間なのだ(199-200頁)。こうした同志意識は格差社会では生まれにくい。2013/03/24
かず
9
あとがきにこうある。「本著は親鸞に関する伝記ではない。また親鸞の思想を批評する評論でもない。私が意図したのは、親鸞が意図した信心の世界を、私もまた追体験して描き出すことである。」兎角、浄土教に対して皆が思うのは、「なぜ、南無阿弥陀仏と唱えることで幸せになるのか」ということだと思う。そこが理解できないと、途端に胡散臭いものとなる。その問いへの回答が139ページからの「『信心』の点灯」に記載されている。阿弥陀仏とは何なのか、それに帰依するとはどういう意味を生じさせるのか、そこを消化しないと信心は得られません。2016/07/20
うえ
8
親鸞の「関東の門弟たちの間で本願念仏の理解が揺れ動くなか、「哀民房」と称する人物が暗躍を始める。彼は、親鸞によると、一度も会ったことのない男であり、また手紙のやりとりをしたこともないにもかかわらず、親鸞から手紙を貰っていると高言しており、しかも、「哀民房」が書いたという『唯信抄』を見ると、その内容のひどいこと。親鸞は火にくべて燃やしてしまうように、と書いている(『親鸞からの手紙』第二一通)。「哀民房」はあきらかに、親鸞の権威を借りて、関東の門弟たちを支配下におこうと企みはじめていたのであろう」2019/11/21
にゅ
6
すごく私なりの意訳だが、浄土(真)宗は「凡人は救われよう幸せになろうとして自助努力するけど、煩悩故に他人を妬んで優越しようとするから結局気持ちの溝は深まるばかりで挫折する」という問題に対して、解決策としての念仏を提案している。ここで念仏の本質とは、自分の努力工夫ではなく阿弥陀仏の努力工夫であり「自力で他人に優越しようとするのではなく、自分じゃない何だかよくわからん大きなもの≒世界や他者との繋がりを意識しろ。調和を求めろ」というメッセージを感じる。現代人の悩みにも応用の効くとても良い宗教なのではないか。2021/06/11
マープル
6
『法然入門』に続いて読了。いわゆる伝記的な部分はほとんどなく、著者の親鸞読解を追体験する形の本。「親鸞入門」とは言えないけれども、私個人は親鸞本2冊目だったのでちょうどいい感じ。肖像画から親鸞は出っ歯だったんじゃないかという指摘には笑ってしまったが。しかし、親鸞という人は忠実に法然を尊敬していて、後年の(現在にも続く)浄土宗と浄土真宗の分離はこの本でも触れられておらず、また別の本で勉強するしかないかと。やっぱり蓮如とかの辺なのか・・・?2012/03/28