内容説明
明治維新期、急進的に西洋音楽を輸入した日本。しかしその目的は、西洋芸術音楽を吸収し芸術音楽家を育成することではなく、中央集権国家の確立と欧米並の文明国家としてのアピールを急激に実現することにあった。日本人が欧米のスタンダード音階(ドレミ)を歌えるようになること、有機的な国家意識をもつことなどが急務であり、恰好の教育手段として「唱歌」は使われたのである。「唱歌」の重要性を深く認識していた東京芸術大学音楽学部の創設者伊澤修二。その生涯を通して、当時の為政者側のもくろみを知り、国家形成に果たす音楽の役割を考える。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
1959のコールマン
65
☆5。この本には書いていないが、伊澤修二は1886年に日本最初の(西洋式)「軍歌」を作曲した人。作詞者は東大文学部長、外山正一(とやま まさかず)。タイトルが『軍歌』。紛らわしい。(「日本の軍歌」辻田真佐憲著より) そういったエピソードを知っているせいか、伊澤修二の行動、意見には驚きはしなかった。あの頃の国家を担う人々にとって、音楽は国家のための「道具」としか考えられなかっただろう。その頃の日本の置かれた状況もあるが、それより、聴いたことの無い民族音楽を聴いていきなり理解しろというのは無理なように、↓2021/11/27
tnk
3
西洋音楽は近代的な身体と精神を形成する手段として近代日本に導入されたことを裏付けていく。岩倉使節団がアメリカでコンサートを訪れ、費用や動員数、音楽によって会場が愛国心に包まれることを記録しながら、ヨハン・シュトラウスが出演したことをスルーしているエピソードは象徴的。2022/10/11
DABAN
1
音楽とは芸術であり、心を豊かにするものと考えられている。だが明治日本に西洋音楽を持ち込んだ教育官僚伊澤修二にとってはそうではなかった。19世紀の音楽とは、集団のなかで響き合うものであり、ひとりひとりの身体を動かすものだったのだ。高遠藩の少年鼓笛手として出発した伊澤は、米国で自然科学を学び、進化論や音声生理学を通じて、身体が響き合う装置としての音楽を身につける。そんな伊澤にとって、明治末期における芸術音楽の興隆は嘆かわしいものだった。集団をつくる音としての音楽。それは現在の唱歌にも受け継がれているだろう。2020/04/18