内容説明
確かなものに思われた日常の続きをふと見失った「私」は、病み上がりのけだるい心と体で、比叡高野等の神社仏閣を巡る旅に出る。信仰でも物見遊山でもない中ぶらりんの気分で未だ冬の山に入った「私」を囲み躁ぐ山棲みのモノ達――。現在過去、生死の境すら模糊と溶け合う異域への幻想行を研ぎ澄まされた感覚で描写。物語や自我からの脱出とともに、古典への傾斜が際立つ古井文学の転換点を刻する連作短篇集。
目次
無言のうちは
里見え初めて
陽に朽ちゆく
杉を訪ねて
千人のあいだ
海を渡り
静こころなく
花見る人に
肱笠の 肱笠の
鯖穢れる道に
まなく ときなく
帰る小坂の
著者から読者へ
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
HANA
60
叡山、高野山、四国霊場、鞍馬…著者の道行はさながら古代の漂泊か中世の風狂か。寺社仏閣を巡るといえば普通はそこの歴史や風情を綴るという書き方が一般的だが、著者の筆にかかるとそのような物は一顧だにされず、それでも文の力によって古代中世とのあわいは破れ現実と幻想を隔てる皮膜も何時しか無くなっている。現代の事を物語っているのに風情はさながら中世の徒歩の旅で、バスやタクシー、という単語でようやくこれは現代の旅だという事を思い出させられるなあ。直接その地に関する描写は無いものの明らかに地霊の力を感じさせる本でした。2021/03/13
syaori
52
物語はある男の語りで進みます。彼が目指すのは比叡や高野の山々。そこで彼の魂は古の歌を、荒法師たちのざわめきを、昔男の思いを想い、男女の交接や生臭を想い、それに呼応するように山が躁ぐ。様々な人の血を、願いを受けてきた山の躁ぎに魂があくがれ出るのか、病み上がりの体を、便意に痛む腹を抱えた魂が山を躁がせるのか。そんなことは分かりはしないのですが、幻想と現実の間を、落ち込むようにとぼけたように行き交い、その果てに山を下る自分を山上から見下す男は日常へ帰ったのか山へ心を残したのか、そんなことがとても気になりました。2019/11/26
踊る猫
31
例えば(誰でもいいのだが)三島由紀夫の装飾過多な文章の傍にこの日本語を置いてみる。すると、平たい円やかな文章で書かれているこの日本語もまた三島に劣らない高度な言語遊戯を繰り広げていることが伺い知れる。筒井康隆を想起した、と書くと頓珍漢だろうか。筒井のマジック・リアリズムにも似た、現実と非現実の間をごく自然に往還する体験をしたように思ったのだ。それも、繰り返すがレトリックを飾るのではなくちょっと日本語を狂わせるだけで。この書き手、只者ではない。日本は別にラテンアメリカ文学に驚く必要などなかったのではないか?2020/04/14
踊る猫
29
読み通したが、展開される「ヴィジョン」の豊かさに見惚れてしまい、裏を返せば「スジ」を読めない読書となってしまった。古井由吉という作家はどういう作品であれ(私は良き読者というわけではないが)ひとつのオブセッションに拘り続け、そこからするすると言葉を綴っていく。そのオブセッションとは「女」なのか、「山」なのかそれとも「日本」なのか。日本古来の文学をしかし、あたかも自身の内側でリミックスし再構築し直したかのような、一見すると人畜無害なようでありながらしかしなかなか煮ても焼いても食えない一冊が出来上がったと考える2018/09/09
踊る猫
27
自由に、闊達に。筆は縦横無尽に文章を紡ぐ。そこで展開されているのが濃密に舌に訴えかけてくる食べ物の記憶であったり、女人たちの記憶であったり、古の人々をめぐるヴィジョンであったり、いずれにしてもこちらの原初の本能を擽るような奇妙に艶めかしい感覚であることが面白い。それらは容易に言葉にできないものであるはずだ。言葉にしてしまうと現実と虚構の間、理性と本能の間が崩れてしまうような……それをこの作家は涼し気な顔で崩してしまう。だからこの作品集を読むということは、自明の理とされている常識が崩れる恐ろしい体験に繋がる2021/01/29