内容説明
日本の近代史においては、文学者や文芸批評家が、思想の中心的な担い手となってきた。もちろん、広く影響力をもった哲学者もいるが、近代日本思想の影響力の中心につねに文学があったのは、なぜなのか。吉本隆明、柄谷行人、三島由紀夫、丸山眞男、埴谷雄高など、文学と哲学が交錯する地点でその思想の特質を再検証する、注目の社会学者の力作論考。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ドワンゴの提供する「読書メーター」によるものです。
ころこ
43
思想・文芸批評集。『まえがきにかえて』から相当に気合が入っている。東浩紀を引いて、日本には哲学が定着しないで文芸批評が代替したという歴史観を、ラカンの日本語に対する洞察と共に論じる。日本における文芸批評は、普遍性を具体性へ照準することに失敗した結果のようにみえる。しかし、特異性から普遍性への回路が開かれるのは、有限性によって生じる残余が無限性に他ならないからだという。やはり思想を直接扱ったものは難易度が高い。『〈ポストモダニスト〉吉本隆明』は吉本の読みに唸らされるし、『原罪論-廣松渉とともに』は著者の結晶2023/02/28
1.3manen
11
大逆事件と9・11(185頁~)。グローバル資本主義を支える社会民主主義的な体制をとる。<社会学する>とは、社会的な水準にさまざまな秩序(あるいは反秩序)を形成せざるをえないわれわれの経験が、どのような構成をとっているかを認識すること。社会的であるほかないわれわれの経験が、どのようなものであるかを<見ること>(291頁)。学問する、とはどうなのだろうか? 学んでから問う。なぜか? と。経験を重視する著者の該博な知識で社会を科学している。2014/02/03
amanon
4
前書きでの、日本における思想の担い手は哲学者及びアカデミシャン ではなく文学者や文芸評論家であったという指摘には考えさせられるものがあった。元哲学の徒であった者として、哲学の専門タームが結局一部の者の間でしか通用しないという状態が未だに続いていることに一抹のもどかしさを覚えた次第。後、柄谷が書いた文章に「ぎこちなさ」を覚えるというくだりには、自分が柄谷の文章にずっと感じていた何かが一挙に理解できたようで、驚愕を覚えた。その「ぎこちなさ」で読者を引き込ませるところが柄谷の魅力でもあるのだけれど。2015/09/25
あに太
1
この本の最終章の「まれびと考」では、大澤さんの思想の原型がある。彼のキーワード、「第三者の審級」もこの論考で詳しく論じられている。それはともかく、面白かったのは、「伝統」、「モダン」、「ポストモダン」はそれぞれ循環構造であるということである。伝統の権威にヒビが入るところに、モダンが始まる。モダンは伝統的規範を捨てて、普遍的正義を主張する。他方、ポストモダンは普遍的正義を相対化する。それはモダンの普遍性が歴史や国に依存している虚構に過ぎないことを暴く。その結果、ポストモダンは伝統へと回帰するのだ。2025/12/13
静かな生活
1
良くも悪くも大澤真幸的。文学的ではないが、仔細な現象をここまでビックスケールにできるとは。2022/09/08
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