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内容説明
フッサールとハイデガーに学びながらも、ユダヤの伝統を継承し、独自の他者論を展開した哲学者エマニュエル・レヴィナス。自身の収容所体験を通して、ハイデガーの「寛大で措しみない存在」などは、おそるべき現実の前に無化されてしまうと批判する。人間はどれだけわずかなものによって生きていけるのか、死や苦しみにまつわる切なさ、やりきれなさへの感受性が世界と生を結びつけているのではないか。こうした現代における精神的課題を、レヴィナスに寄り添いながら考えていく入門書。
目次
個人的な経験から―ばくぜんと感じた悲しみ
第1部 原型じぶん自身を振りほどくことができない―『存在することから存在するものへ』を中心に(思考の背景―ブランショ・ベルクソン・フッサール・ハイデガー 存在と不眠―私が起きているのではなく夜じしんが目覚めている 主体と倦怠―存在することに耐えがたく疲れてしまう)
第2部 展開「他者」を迎え入れることはできるのか―第一の主著『全体性と無限』をよむ(享受と身体―ひとは苦痛において存在へと追い詰められる 他者の到来―他者は私にとって「無限」である 世界と他者―他者との関係それ自身が「倫理」である)
第3部 転回:他者にたいして無関心であることができない―第二の主著『存在するとはべつのしかたで』ヘ(問題の転回―自己とは「私」の同一性の破損である 他者の痕跡―気づいたときにはすでに私は他者に呼びかけられている)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ころこ
41
著者がレヴィナスのイタコのようです。批評でもないヌメッっとしたのは、現在はすこぶる評判が悪そうな形式です。距離をとって欲しいというニーズが多いのはよく分かります。前半は『存在することから存在するものへ』です。無は存在しないといわれてきたが、存在することの厄災から「無」について考える。忌避している倦怠や疲労は、躊躇を含んで身体を余計に意識することになり、私が<私>であることの容赦のなさ、存在することの悲劇が把握される。主体といった言葉が臆面も無く登場し、思弁的フッサールといった感じです。後半の『全体性と無限2019/07/31
ねこさん
29
それが存在しないよりも静かな静寂、重い雪はまっすぐに、軽い雪は舞いつつ落ちるのは、近さがもたらす錯覚かも知れないことを確かめられずにいた。欲求の始原は皮膚の表面を覆う。恋人の顔を見ながら見られていることを意識させたいと欲し、その肌に触れることに焦がれながら触れられていることへの没頭を望む。薄明かりの空気、触れた身体が経てきたであろう不可触なる過去のぬくもりは、生の濃密さへの敗北と苦悶を空中に差し出させる。他者を通じて顕在化する代替可能性の軽薄さに懊悩したあの頃、レヴィナスを知っていたらどうだっただろう。2018/03/29
fishdeleuze
26
詩的な良書。レヴィナス哲学の主要概念を網羅、紹介しつつ、問題点を提起しながら論を進めるのは読者にとっても刺激的。とりわけ『全体性と無限』上梓後、デリダの批判を受けてから『存在するとは別の仕方で』へ至る変遷が興味深い。とはいえ、レヴィナスの思想は非常に難解だ。だがそれでもなんとかして読みたいという気持ちにさせられるのは不思議。レヴィナスのテクストに対するまなざし、熊野氏のテクストに対する読者のまなざしという二重のまなざしがそう思わせるのかもしれない。2013/03/30
塩崎ツトム
23
「存在する」ということの取り付く島もない感覚。「存在する」ことを享受することの後ろめたさ。世界の底が抜けるような不安。無限に遠くて高い「他者」との距離。ちょっとずつ崩れていく自己と若さ。これからの人生で今が一番若いと言われても困るのである。レヴィナスの思想は「終末感」が漂っているような気がする。2023/10/20
テツ
22
全ての偉大な哲学者と同じようにレヴィナスの哲学は自身の体験から紡がれた。ユダヤ人ということでナチスにより両親や仲間を殺されて自身だけが生き残ってしまったという負い目を見つめ、その体験に纏わる夥しい数の他者に意味をつけるために生まれた。自身を意味づけし存在させるのは他者。他者のまなざしであり他者の顔。生き残ってしまった自身を規定するための努力。その裏に死者たちを無駄にするものかという無意識の情熱を感じる。レヴィナスに限らず哲学には血と想いが通っているなあと改めて思いました。2020/02/18