内容説明
見るひとが言葉をもちい、語るひとが眼差す、それは当たり前のことだろうか…。ドイツ認識論史にわけいり、当たり前の所以を探る。
目次
序章 ドイツ認識論と超越論的言語哲学―一つの見取り図
第1部 哲学するラテン語とドイツ語のあいだ(語り得ないものを語るということ―マイスター・エックハルトにおける認識の問題;バウムガルテンの存在論と世界論―世界概念の基礎づけをめぐる思考(1)
カントのカテゴリー論と理念論―世界概念の基礎づけをめぐる思考(2)
美は人間を人間たらしめる形成手段である―シラーにおけるヒューマニズム、カント、ゲーテ)
第2部 ドイツ語で思索する古代ギリシア哲学(自我と認識―イエーナ期ヘーゲルをめぐって;“イデアを観ること”とはどのようなことか―プラトニズムの問題からみたヘーゲル;フッサールとプラトン―知識の起源としての臆見;実践的推論において見ること―『ニコマコス倫理学』のハイデガー的現象学)
第3部 ドイツ語で哲学するユダヤ人たち(コーエンにおける無限判断とその射程―序説;ローゼンツヴァイクのコーエン論におけるハイデガー―「入れ替えられた前線」を起点として;機能・シンボル化・人間学―カッシーラー哲学を読み解くための三つの観点;ローゼンツヴァイクと聖書物語―「本質認識」批判としての「語る思考」)
第4部 ドイツ認識論で現象を救う(フッサールとブレンターノ―志向・明証・反省;ハイデガー的カントの図式論=演繹論―或るヴィトゲンシュタインとの接点;沈黙と饒舌―ヴィトゲンシュタインとショーペンハウアー)
終章 ドイツ哲学で認識の身分を問う―本書をふりかえりつつ
著者等紹介
梶尾悠史[カジオユウシ]
2012年東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、奈良教育大学准教授。専攻は哲学・倫理学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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