内容説明
今日のメディア・テクノロジーは、世界のあれこれの出来事をほとんどリアルタイムに私たちに見せる一方で、それらを次々と処理していくことを同時に要求している。そのなかで私たちは、日々膨大な情報に埋もれてしまい、眼前に存在する他者や未知の出来事をアクチュアルに見る能力を著しく低下させてはいないだろうか?酒井耕・濱口竜介、鈴尾啓太、小森はるか―震災を記録した3組の作家たちの実践から、映像メディア理論の新境地を開く。
目次
序章 “見る”をめぐる困難について
第1章 “見る”とメディア・テクノロジーの系譜学
第2章 様々なるアーカイブ論への問い
第3章 映像生態系としての「わすれン!」の特異性
第4章 三つの映像制作論と作家たちの生成変化
第5章 “作る”と“見る”を結び直す中動態論
終章 “見る”から“信じる”へのイメージ論
著者等紹介
青山太郎[アオヤマタロウ]
1987年、愛知県生まれ。京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科博士後期課程単位修得退学。博士(学術)。現在、名古屋文理大学准教授。今日のメディア環境における映像制作の美学と倫理学のあり方を探求している。また、映像デザイナーとして国内外で制作・展示活動を手がける(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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yoooko07
1
他者と共にある世界を再び信じるための拠点に自分自身がなるということであるのだろう(p349)世界を信じるとは、自らの主体性の再編成を通じて、同一性を前提としない世界と他者の存在をその都度肯定するということだろう(p.350)他者のいる出来事に巻き込まれながら〈理解〉の一歩手前のに留まって、〈わからなさ〉に目を凝らし、耳をそばだてることで実現へと近づくだろう(p353)2022/03/27
谷繁
0
他のレビュアーの方が言っているように、終盤の意義が分からない。私が知っている限りだと、この本で言われているような事例だと「生成変化」は起こらないはず。小泉義之さんや江川隆男さんの本を読むと、とてもじゃないけど著者が言っている変化は「生成変化」ではないと思う。「中動態」もどこかの真ん中だけ強調されて、たいした説明もなく、ただ煙に巻かれた感じ?さらに、その「中動態」からとてつもない変化、「生成変化」が起こるの?紹介されてる作家たちの同一性は完全に維持されてるよね。。。うーん。。。「出来事」とか、起こってるの?2022/05/10
さちえ
0
見栄のために概念を無理矢理に使ってしまった。 撮影時には無数の受動-能動の関係があり、その中で主体性の再編成が起こると。ふむふむ。まあね、撮ってたら物の見方や考え変わったり、他人から影響されて複眼的になるよね。で、なんでそれが「生成変化」なの? これ博士論文だよね…。審査員全員なにやってんの?「少しの変化」と「生成変化」の違いすら分からない?ドゥルーズはメルロ=ポンティと同じなの?関わった人は説明して! 受動-能動を曖昧にして、無責任の体形で言い逃れはやめてね。結局、それが中動態の本性だよね? 2022/07/04
梅田
0
東日本大震災をモチーフに永続作品を残した三組の作家(酒井耕・濱口竜介、鈴尾啓太、小森はるか・瀬野夏美)を中心に、その手法について論じる本。博論っぽいなと思ったらほんとに博論だった。僕がドゥルーズとか國分功一郎とか読んだことないからかもしれないけど、終章の議論の意義がよくわからず。震災にまつわる映像アーカイブのあり方についていろいろと考えさせられた。2022/05/04