出版社内容情報
ヒアリはアルカロイドの強い毒をもち,刺されると死に至ることもあり,特定外来生物に指定されている。幸い,S. invictaは日本ではまだ見つかっていない。侵入しても顕在化するまでに数年を要するので,すでに侵入している可能性は否定できないが,侵入して数年以内であれば根絶させ,定着を防ぐことも不可能ではないだろう。いったん定着した後の莫大な損失を思えば,まずヒアリの侵入・定着を防ごうとする努力こそ大いに価値がある。しかし,日本人でS. invictaを知る人はほとんどいないのが現状である。このアリが環太平洋諸国に分布を拡大し始めた今日,ヒアリの行動や生態に関する啓蒙は緊急を要している。環境省,農林水産省,厚生労働省が一体となって,早急にヒアリの侵入・定着を防ぐ体制をつくる必要がある。
「ヒアリ戦争」への備え
●なぜヒアリを日本に定着させてはいけないのか?
極めて強い毒をもつ
ヒアリ毒の95%を動物ではほとんどみられないアルカロイドが占め,毒性が強い.約0.1%しか含まれていないタンパク質もしばしば激しい抗原抗体反応を引き起こし,アメリカではアナフィラキシーショックによる死亡件数が毎年約100件にのぼる.
人間の生活圏を好んで営巣する
ヒアリが好んで生息する環境は大都会の公園,道路わき,住宅街の空き地,芝生,農地などのように,常に人為的撹乱にさらされている環境である.ヒアリの定着による最大の犠牲者は,公園で遊ぶ子供たちや芝生でゲートボールに興じる老人たちになるだろう.
経済的損失も莫大である
アメリカ農務省の試算によると,ヒアリの経済的損失は毎年約5000億円にのぼる.ヒアリは電気を好み,漏電による火災や,発電・送電施設のトラブルの多くがヒアリによるという.農業被害も大きく,日本では西日本地方の畜産業や果樹園への影響が懸念される.
多女王制コロニーは殺虫剤への耐性が強い
アメリカでは大量の殺虫剤をまいてヒアリを根絶しようとしたが,重大な環境汚染を引き起こした.1つの巣に数十匹から数百匹の女王アリを擁する多女王制コロニーは特に耐性が強く,初期の駆除に失敗すると根絶は非常に難しくなる.
●環太平洋諸国への侵入開始!
21世紀に入ると同時に,オーストラリア,ニュージーランド,台湾,中国,香港,マカオでヒアリのコロニーが相次いで見つかった.これらの国々や地域では検疫体制を強化するとともに,巨額の費用を投じてヒアリの研究と根絶キャンペーンを開始した.原産国であるブラジル,アルゼンチン,20世紀に侵入・定着したアメリカ合衆国を加えると,日本の主要輸入相手国はほとんど全てヒアリに汚染されたことになる.環境省,農林水産省,厚生労働省が一体となって,早急にヒアリの侵入・定着を防ぐ体制をつくる必要がある.
目 次
1章 ヒアリ類の分類と分布
1.1 「ヒアリ」という種の分類学的位置
ヒアリの特徴
日本に分布するヒアリに似たアリ
ヒアリの形態学
1.2 「ヒアリ類」というグループ
ヒアリ類とは何か
ヒアリ類の分類の歴史
ヒアリ類のグルーピング
ヒアリ類の分布
1.3 トフシアリ属
1.4 ヒアリにまつわる学名の混乱と収拾
2章 多型と分業
2.1 ワーカー多型
2.2 形態分業と齢分業
3章 毒とフェロモン
3.1 ヒアリ毒の組成と作用
強すぎる毒の適応的意義
ヒアリの毒は植物毒?
ソレノプシン組成の進化
タンパク成分とアレルギー反応
毒の多面的利用
3.2 女王フェロモン
3.3 体表炭化水素
3.4 道しるべフェロモン
4章 単女王制コロニーの生活史
4.1 結婚飛行と女王単独によるコロニー創設
4.2 多雌創設
4.3 女王間闘争とブルード争奪戦
4.4 独立創設型女王の生存率と死亡要因
4.5 孤児コロニーへの侵入
4.6 コロニーの成長
4.7 巣となわばりの構造と機能
4.8 採餌と給餌
5章 多女王制コロニーとGp-9遺伝子
5.1 多女王制コロニーの特徴
5.2 新生女王の居残り・侵入
5.3 女王間にみられる適応度の偏り
5.4 マッチ交尾と二倍体雄
5.5 Gp-9遺伝子の発見
5.6 多女王制コロニーの有翅虫
5.7 Gp-9遺伝子の塩基配列と進化
5.8 多女王化を促す選択圧と「緑の顎髭」遺伝子説
6章 南米のヒアリと天敵
6.1 ヒアリの生息環境と密度
6.2 小胞子虫Thelohanea solenopsae
6.3 ノミバエの一種Pseudacteon tricuspis
6.4 完全社会寄生アリ,ヤドリヒアリ
7章 北米への侵入と分布拡大
7.1 侵入の経緯
7.2 分布の拡大とヒアリ戦争
7.3 ヒアリによる被害と生態系への影響
7.4 生物的防除の試み
8章 環太平洋諸国への侵入開始
8.1 拡散の現状
8.2 なぜヒアリの拡散が始まったのか?
8.3 日本に侵入させないために
8.4 日本に定着させないために
9章 日本への助言と提言
ヒアリの侵入が迫っている今日,日本は何をなすべきか
9.1 はじめに
9.2 ヒアリの影響
9.3 予 測
9.4 提 言
9.5 おわりに
引用文献
索 引
Box 1-1 日本産の類似種とヒアリの区別
Box 1-2 学名のルール
Box 2-1 エゾアカヤマアリの分業
Box 4-1 アリの順位制
Box 4-2 アリの労働寄生
はじめに
アリ類はこれまでに8,000種以上が記載されたと言われているが,行動や生態が明らかになっている種は少ない.ましてや,行動生態の生理学的背景や遺伝子基盤まで詳細に研究された種は20種に満たないだろう.その中にあって,ヒアリ類の一種Solenopsis invictaは最も研究の進んでいる種の1つである.このアリは,原産地南米ではあまり目立つアリではない.このヒアリが注目されるようになったのは,1930年代にアメリカ合衆国アラバマ州モービル港に侵入し,分布を拡大するようになってからである.おそらく,南米に比べると天敵がはるかに少ないためと思われるが,このヒアリの分布拡大速度はめざましく,1940年代以降,1年間に約10kmの速さでアメリカ合衆国東南域に拡大し,現在ではアラバマ州,ミシシッピー州,ルイジアナ州,テキサス州,ジョージア州,フロリダ州を中心に,12州にまで広がっている.このヒアリによる農業被害やインフラ被害は莫大な金額にのぼるが,一番恐れられている理由は,他の動物ではほとんどみられないアルカロイド系の毒をもち,その毒性がヒアリ類の中でも群を抜いていることである.アルカロイドによる直接的な毒作用に加えて,毒に含まれるタンパク質への過剰なアレルギー反応を起こす人々も多く,ハチ毒でもしばしば起こるアナフィラキシーショックなどで治療を受ける人が東南域諸州だけでも毎年約8万人いると見積もられている.アメリカ人は一般に体格がよく,死亡にまで至る例は比較的少ないが,それでも年間約100人が死亡しているという.
この侵入害虫の分布拡大に伴い,アメリカ農務省 (USDA) 農学研究部門 (ARS) にヒアリ研究チームが編成されると,各州立大学でもヒアリ研究部門が組織され,ヒアリの研究が盛んになった.まず,1950年代末から1970年代にかけて,ヒアリに効く殺虫剤や農薬の開発が進み,大規模な空中散布が何度も実施された.これによってヒアリの密度が減少したという報告もあったが,生態系に及ぼした悪影響も大きく,Rachel Carsonの『沈黙の春』に代表されるように,特にヒアリ用の殺虫剤や農薬を標的として環境保護運動が起こった.これにより,1980年代には強力な殺虫剤や農薬の使用が禁止され,USDA・ARSや大学でも天敵などによる生物的防除を中心とした総合防除の研究が主流となった.しかし,これ以降も,ヒアリの密度が増し,多女王制コロニーの増加を招いた.この現象はヒアリ研究の世界でも新たな展開をもたらし,単女王制と多女王制の制御にかかわるGp-9遺伝子の発見につながった.このように,アメリカ合衆国に侵入したヒアリの研究では,応用研究とともに基礎研究も並行して発展してきた.
S. invictaは基本的にアリ塚をつくる定着型の種で,アルゼンチンアリやアシナガキアリのような放浪種ではなかった.このため,1982年にアメリカ合衆国のすぐ南に位置するプエルトリコへ侵入したのを除けば,1930年代以来約70年間,他国への侵入は起こらなかった.これは,アメリカ合衆国が世界最大の経済大国で,東南域諸州からも農産物を中心に膨大な物資が世界各国へ運び込まれてきたことを思えば,不思議なことである.しかし,2001年2月,はるかかなたのオーストラリア・ブリスベンでこのアリのコロニーが多数発見された.2004年2月には,やはり農産物などへの検疫が厳しいニュージーランドでもS. invictaのワーカーが多数見つかると,台湾,中国,香港,マカオでもこのヒアリの定着が次々と報告された.オーストラリア,中国,台湾におけるアリ塚の大きさや多さは,環太平洋諸国への侵入がすでに1990年代には始まっていたことをうかがわせる.これらの国々では莫大な資金を投入して根絶に努めているが,成功しつつあるのは,ヒアリにとって気候的に不適と思われるニュージーランドだけである.プリスベンでもコロニー数は激減し,根絶計画は成功しているようにも見えるが,発見が遅れたために有翅雌がすでに拡散している可能性が高く,分布拡大はすでに始まっているとみる専門家も少なくない.オーストラリアは中央部の砂漠地帯を除くと,全域がヒアリにとって好適な環境で,その分布拡大は特に畜産業に大きな打撃を与えると予想される.台湾ではまず台北に近い桃園というところで見つかった.台湾政府は早速国立ヒアリ研究センターを設立して根絶に努めているが,最近,台湾南西部への分布拡大が確認され,根絶は絶望的という見方が広がっている.中国大陸では,まず広東省で見つかったが,すぐに福建省や広西壮族自治区でも発見され,マカオから600km以上内陸の湖南省の村でも見つかった.中国政府は「ヒアリ根絶8ヵ年計画」を立て,実行に移しているが,これほど分布が拡大してしまうと根絶はかなり困難だろう.オーストラリア,台湾,中国では発見の遅れが致命的だった.
アメリカの研究者たちは,1960年代から最大の貿易相手国だった日本へS. invictaが侵入していないことに一様に驚いている.しかし,ニュージーランドやオーストラリアへ侵入したことから,日本の検疫体制がヒアリの侵入をくいとめてきたとみるのは楽観的すぎる.日本にとって不運なのは,アメリカ合衆国同様に貿易量の多い中国,台湾,オーストラリアが侵入源になってしまったことである.我々はヒアリに完全に包囲されてしまった.もちろん,ヒアリといえども所詮は昆虫にすぎず,その侵入によって日本の生態系,インフラ,畜産業がただちに大打撃を受けるというわけではない.たとえ人身被害が出ても,「アメリカでさえ,年間の死亡者数は100人程度」と考えれば,今のアメリカ人がそうであるように,ヒアリを単なる不快昆虫 (nuisance) ととらえ,共存の道をさぐることもできるだろう.殺虫剤や農薬の大量散布で失敗したアメリカ合衆国の轍を踏んではならない.しかし,ヒアリにとって好適な気候帯である東北地方南部域から西日本にかけての人口密度は,アメリカ合衆国東南域の比ではない.また,ヒアリが好む環境はスズメバチが生息するような山林域だけではない.最適な環境は,東京や大阪のような大都会のど真ん中にある公園,舗装道路わきの裸地,住宅街の空き地など,人為的撹乱が絶えず加わっているような環境である.犠牲者の多くは,都会の公園で楽しそうに遊ぶ小さな子供たちや,芝生でハーフゴルフに興じる老人たちになるだろう.山の中に入らなければ襲われることのないスズメバチによる死亡さえ大きく報じられる日本で,「ヒアリはお友だち」という寛容な態度を取り続けられる人がはたしてどれだけいるだろうか.
幸い,S. invictaは日本ではまだ見つかっていない.侵入しても顕在化するまでに数年を要するので,すでに侵入している可能性は否定できないが,侵入して数年以内であれば根絶させ,定着を防ぐことも不可能ではないだろう.いったん定着した後の莫大な損失を思えば,まずヒアリの侵入・定着を防ごうとする努力こそ大いに価値がある.しかし,日本人でS. invictaを知る人はほとんどいないのが現状である.このアリが環太平洋諸国に分布を拡大し始めた今日,ヒアリの行動や生態に関する啓蒙は緊急を要している.
しかし,この本は「ヒアリ戦争」への備えを訴えるだけの本ではない.S. invictaは数多い社会性昆虫の中でも最も詳しく研究されてきた種であり,この本から社会性昆虫に関する最先端の研究成果を学ぶこともできる.たとえば,ヒアリの社会構造を制御するGp-9遺伝子の発見と研究成果は,動物の行動生態と遺伝子の関係に関心をもつ生物学者に大きな示唆を与えてくれる.応用研究とともに基礎研究を目ざす日本人研究者への啓蒙書ともなることを願いながら,この本を世に送り出したい.
2006年8月,ワシントンDCで開催された第15回国際社会性昆虫学会 (IUSSI) でEdward O. Wilson博士にいただいた助言が,この本を著す契機となった.2007年4月,フロリダ州ゲインズビルで開催されたヒアリ会議では,USDA・ARSのヒアリ研究チームを率いるRobert K. Vander Meer博士から多数の資料を提供していただいた.フロリダ州立大学のWalter R. Tschinkel教授からも辛口ながら貴重な助言と励ましをいただいた.また,彼の著書 “The Fire Ants” は,論文だけでは知りえない貴重な情報を提供してくれた.また日本学術振興会PDの吉村正志氏は第1章の原稿にコメントを,国立台湾大学教授のCheng-Jen Shih博士とWen-Jer Wu博士には台湾におけるヒアリ防除プロジェクトのご紹介をいただいた.九州大学・生物資源環境科学府の細石真吾氏 (標本写真),ジョージア大学のKen Ross教授 (ヒアリ),(株) 竹中工務店の宮田弘樹博士 (キバハリアリ),愛媛女子短期大学の村上貴弘博士 (サシハリアリ)には貴重な写真を提供していただいた.北海道大学大学院環境科学院の紅露周平,田中涼子,濱崎真克の各氏は作図の手伝いをしてくれた.ここに名前はあげていないが,フィールド調査やデータ整理などをしてくれた多くの方々に感謝する.
なお,本著は日本学術振興会科学研究費補助・基盤A「外来侵入アリ類と融合コロニー形成に関する総合的研究」 (代表 東 正剛) の一環として出版される.
平成20年1月7日
白銀の豊平峡温泉にて
東 正剛
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