出版社内容情報
「糖尿病臨床の父」エリオット・P・ジョスリンの人生の歩みを、ジョスリン糖尿病センターの医師が描く一冊。インスリン登場前から黎明期における糖尿病診療にエリオット・P・ジョスリンはどう立ち向かったのか。
生涯を糖尿病の治療に捧げ,つねに患者に寄り添ってきた「糖尿病臨床の父」エリオット・P・ジョスリン。ジョスリン糖尿病センターの医師が描くその人生の歩み。
日本語版の序文
訳者序文
刊行によせて
序文
オックスフォードからボストンに、そしてヨーロッパに
第1章
1906年―最初の住所:ベイ・ステート通り81、ボストン
ジョスリン医師の診療所
オスラーの教科書
ジョスリン医師の初期の論文:1898?1906
ジョスリン医師の台帳
最初の登録:メアリ・ヒギンス
ジョスリン医師の継続する教育:1910~1930
二人のバック・ベイの女性
症例8:ジョスリン医師の母親
症例596:フランシス・カボット・パットナム
フレデリック・アレン:糖尿病研究の仲間―旅人
若い研究者
将来へ向けての大躍進:1914~1916
インスリンの前夜
インスリン
ジョスリン医師の仕事に対するインスリンの衝撃
症例2383:ノーベル賞受賞者
ハリエット・マッケイ、訪問看護師、そしてジョスリン医師の台帳 症例2419
患者報告書と患者教育の向上
インスリンの後遺症
患者治療に対する特別プログラムの創作
足病変チーム 97
第2章
1934年―2番目の住所:ベーカークリニック、ディーコネス通り、ボストン
初期インスリン時代―教科書の第五版
ジョスリン医師の初期の仲間
患者へのメダル
第3章
1957年―3番目の住所:ジョスリン通り(広場)15とピルグリム通り170、ボストン
賞賛の時
優しい別れ
変革の嵐
ジョスリンクリニック
論争の時代
グルコース過剰
遺伝の特質
大学グループによる糖尿病プログラム
妊娠
症例14064:ミニエ・K
ジョスリン医師の勝利
1955年:ジョスリンビルディングの開所式
誇りにすること――夢が現実のものとなる
エピローグ:最後の肖像写真
訳者あとがき
人名索引
ドナルド・M・バーネット[ドナルド エム バーネット]
ジョスリン糖尿病センター顧問
堀田 饒[ホッタ ニギシ]
中部ろうさい病院名誉院長,名古屋大学名誉教授
内容説明
インスリン登場前から黎明期における糖尿病診療にエリオット・P.ジョスリンはどう立ち向かったのか。生涯を糖尿病の治療に捧げ、つねに患者に寄り添ってきた「糖尿病臨床の父」E・P・ジョスリン。ジョスリン糖尿病センターの医師が描くその人生の歩み。
目次
第1章 一九〇六年―最初の住所:ベイ・ステート通り八一、ボストン(ジョスリン医師の診療所;オスラーの教科書;ジョスリン医師の初期の論文:一八九八‐一九〇六 ほか)
第2章 一九三四年―二番目の住所:ベーカークリニック、ディーコネス通り、ボストン(初期インスリン時代―教科書の第五版;ジョスリン医師の初期の仲間;患者へのメダル)
第3章 一九五七年―三番目の住所:ジョスリン通り(広場)一五とピルグリム通り一七〇、ボストン(賞賛の時;優しい別れ;変革の嵐 ほか)
エピローグ:最後の肖像写真
著者等紹介
バーネット,ドナルド・M.[バーネット,ドナルドM.] [Barnett,Donald M.]
三十五年間ジョスリン糖尿病センターのジョスリンクリニックでスタッフの医師を務め、1960~1962年にかけてエリオット・P・ジョスリン医師と一緒に働いていた。1989~2000年にかけて、ジョスリン歴史委員会の委員長を務め、2000年以降は顧問、歴史家そして館長としてジョスリンに関わって来た
堀田饒[ホッタニギシ]
名古屋大学大学院医学研究科修了後、名古屋大学医学部第三内科教授、名古屋大学大学院医学研究科代謝病態内科学教授、労働者健康福祉機構中部ろうさい病院院長などを経て、現在中部ろうさい病院名誉院長、名古屋大学名誉教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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