出版社内容情報
離散のユダヤ人が国を持つために2千年間死語同然であったヘブライ語の復活に生涯をささげた男の物語。
イスラエル建国前史も興味深い。
本書はこれまで『不屈のユダヤ魂』として販売されていたものです。
プロローグ
み心は行われる
アレクサンドル皇帝してやられる
「ロビンソン・クルーソ」のおかげで
巻き毛二ふさと女の子二人
つのる痛み
改宗者第一号
コニャックでお祝い
探偵、学者、魔術師、産婆
最後のチェス
二人は一緒
ルイ金貨一枚
スピノザのように
二つの誕生
一本の木
雨の奇跡
デボラの時
三度の死
策略と賄賂
産業の誕生
手紙での恋
王女になるには・・・
「シャローム・ドダー」
美しい炎のように
印刷インク
サウルは何千人も殺した
獄中で
保釈される
言葉、言葉、言葉
焼かれた経歴
東洋のやり方
そうしようと思えば・・・・・
エデンの園
エリエゼルのパリ
ヘムダのロンドン
かくれんぼ
二人のひげの活動家
三つの大きな鉄の箱
一夜の宿---ユダヤ人に限る
「これは現実か?」
恋、革命、芸術
帽子を手に
言語戦争
一九一四年
一九一七年
ヘブライ語成人に達する
友人対友人
十行だけ
エピローグ
プロローグより
1948年、アラブの軍隊がエルサレムの攻囲を開始するわずか数時間前、私はベン・イェフダー通りに並ぶ、修理されないままの建物を眺めていた。英国の委任統治も終わりに近づいたころ、英国の”不正規軍”によって爆破されたという建物だ。
当時は英国のテロ行為によって罪のないユダヤ人が何十人も殺されたことに皮肉を覚えはしなかった。「ベン・イェフダー」というのは、エルサレム、テルアビブ、その他イスラエルの町や村ではよく目にした名前に過ぎなかったからだ。
通りの名前のもとになったのが「英国こそユダヤ人の最良の友である」と、ほぼ半世紀に渡って書き、言い続けてきた人であることを、当時の私は知らなかった。そのひと、ベン・イェフダーについては、ユダヤ系も含めたアメリカ人の大部分と同様、何も知らなかった。
その年イスラエルでは、東洋と西洋の合わせて60ないし70の異なる国々から集まったユダヤ人たちが、ひとつの国家を作ろうとしていた。習慣も衣服も違い、宗教態度や文化水準も違い、言語や方言もさまざまな人々である。彼らに共通するものは何なのか、私は考えつづけた。宗教か?いや違う。不可知論者や自由思想の人も多かったからだ。では、みな忌むべき反ユダヤ主義者の犠牲者で、迫害という共通の経験があるからか?それも違う。なぜならオーストラリアやカナダ、アメリカからきた人もいつからである。そうした国々では、最悪の経験とはいってもキリスト教徒でないということでゴルフ場の会員にしてもらえなかったことぐらいのものだろう。また、共通の文化や知識による結びつきもない。改革派のニューヨーク・ユダヤ人とイエメンのユダヤ人ほどかけ離れた二人の人間を見つけるのも難しい。
イスラエルを離れる前に私はやっと合点した。自分たちの国がほしいという燃えるような思いと同時に、異なった構成要素を結び付けている偉大な接着剤は、彼らの共通の言語なのだと。
その激動の夏、イスラエルを回った私は、いたるところでこんな看板を目にした。
「ヘブライ語教師」
都市の街角で、前線の塹壕で、空軍のキャンプで、航海中のイスラエル船で、男も女も、老いも若きもが、耳に心地よく美しい言葉を話しているのを聞いたが、まさかヘブライ語が2千年近い眠りから復活したのだなどとは、それももっぱら一人の男の力によってなどとは思いもしなかった。
その後ニューヨークへ戻り、あるカクテルパーティーで、ほっそりした陽気な女性、マックス・ウィットマン夫人に出会った。自分はベン・イェフダーの娘だという。私は何度もまばたきした。私にとってベン・イェフダーはまだ通りの名前に過ぎなかった。
数日後、その人に連れられて五番街の北にある病院へ行き、その母親のヘムダ・ベン・イェフダーに会った。少し前にエルサレムから飛行機で連れてこられ、彼女の言葉を借りれば「腰をくぎづけにしてもらった」のだという。ヘムダ・ベン・イェフダーは80歳に近く、手術もかなりの大手術だったそうだが、背中に物を当ててベッドに座り、紙に言葉を書き付けていた。
「回顧録よ!」
そういう彼女の目はきらきらと輝き、あだっぽくさえあった。
その病院へは何度も足を運び、通りの名前の元になった男について、いろいろと教わった。書きかけの回顧録も読ませてもらった。これは英語だった。
何年も前に、ヘムダ・ベン・イェフダーはヘブライ語で夫の伝記を書き、」これはエルサレムで出版されていた。マックス・ウィットマン夫人(本文中のシュロミートあるいはドーラ)がその本を英訳してくれた。そこに出てくるさまざまな事実は、本文中に組み入れてある。
ベン・イェフダー自身の書いたものも手に入れることができた。その中には、若いころのことを書いた短い自叙伝もある。
その人生は、はっきり見てくればくるほど、たぐいのないものだった。私の知る限り歴史上ただ一人、ほとんど独力で古代の言語を復活させ、強い反対に会いながらも普及させた男。反対したのはほかならぬ得をするはずの人々で、神聖な言葉をみだりに扱うこんな“不信人者”は神に滅ぼされるぞ、という人が多かった。
家族による見方はわかったので、もう少し客観的な人物像を知りたくなり、ほぼ1年間、アメリカとヨーロッパの図書館で調べた。二つの大陸で、彼を知っていた人、一緒に働いた学者たちから話を聞いた。ベン・イェフダーは、人生の大半は友人よりも敵のほうが多かったはずだが、「批判的な」見方がなかなか得られなかったので、専門の研究者を雇って--この女性もヘブライ語学者だったが--よくない事柄だけを見つけさせた。何週間も調べてもらったが、彼の業績に疑問を投げかけるようなものは何も見つからなかった。
エルサレムで話をした近所の人の中には、ベン・イェフダー家の人々を軽んずる者もいたが、伝記の内容を変えるような材料を提供してくれるわけではなかった。せいぜい、ヘムダにかぶっている帽子が気に食わないとか、子供の行いがよくない、といったことだけだった。
ようやくエルサレムのあるジャーナリストにたどり着いた。後期のベン・イェフダーを強く批判していた一人で、私の頼みに応じて、自分の書いた記事のファイルを送ってくれるという。その内容は要するに、「以前彼に反対したこともあった・・・・」ということだった。
ベン・イェフダーを批判した人たちは、文字通りもう世を去ったか、彼が2重の運動に最終的に成功したために沈黙させられていた。ユダヤ人国家を建設し、そこではヘブライ語を国民全体の言語にするという運動である。
この物語は、あるユダヤ人のことをユダヤ人でないものが、ユダヤ人にもユダヤ人でない人たちにも呼んでもらおうとして書いたものである。したがって、読者は「セデル」と「キブツ」違いすら知っている必要はない。ヘブライ語学者が書いたほうがよかったかもしれないが、ヘブライ語学者は誰も書かなかった。それにもしかいていたらヘブライ語学者以外の人には面白くないものになっていただろう。またこの物語は、言語学科の学生のためだけに書くには人間の苦闘があまりにも激しく脈打っていて惜しい。
これは何百万人もの人々に、それまではタルムードの学習と祈祷文に使われるだけだった言語で食料品を注文し、牛を追い、愛を語り、隣人をののしり倒すことができるようにした男の物語である。
これは信心深い狂信者の物語である。その男は2度の大恋愛をし、親友を敵に回し、信念のために監獄に入り、結核のために常に死と隣り合わせ、それでも11人の子をもうけ、言語学の世界ではそれまで想像もつかなかった16巻に上る大辞典の資料を集め、いくつかの戯曲と1冊の地誌を著し、民族のために歴史上最も重要な2つの「訴え」を行い「魂」にあたる言葉を調べている時に死んだ。
この物語を読んでも喜ぶユダヤ人は少ないだろう。というのは、生前のベン・イェフダーは、どの陣営にも敵を作ったからだ。その批判の仕方は容赦がなかった。狂信的なあまり、友情のためですら、自らの決めた進路から外れようとしなかった。その人生は、1つの絶え間ない確執だった。彼のとった立場が明らかに間違っていることもよくあったが、この本の中では、私は彼についても彼のものの見方についても判断を下していない、できる限り事実に基づいて語った。
この本の中にちりばめられた会話は、速記禄からとったものではないが、登場人物の気持ちは伝えられていると思う。わずかながら、ベン・イェフダー自身が生前に書き残したものも入っている。
一度ある講演で、ユダヤ人の自由にものを考える伝統的な精神について説明しようとして、部屋にユダヤ人が3人いれば、どんな問題いついても3つの意見が出る、といったところ、会場の一番後ろにいたユダヤ人にこうやじられた、「あんまは間違いなくゴイ(非ユダヤ人)だね。ユダヤ人なら、部屋にユダヤ人が3人いれば、どんな問題についても4つの意見が出るって事を知ってる!」
ヘブライ語には、ローマ字をどう組み合わせても表せない音がある。そのため、ヘブライ語の単語を英語でつづろうとすると、少なくとも3通りか4通りの書き方ができてしまう場合も多い。
スイスのジュネーブ大学の図書館で発見したのだが、エリエゼル・ベン・イェフダーの名前は5通りにつづられていた。(日本語版においては、現代ヘブライ語の発音にしたがって訳語をつけた。訳者注)
年月日についても、いろいろと問題があった。トルコ支配下にあったパレスチナ・ユダヤ人のほとんどはユダヤ暦を使っていた。英国の委任統治になって、西暦に置き換える必要が出たが、正しく置き換えられなかったものが多かった。たとえばベン・イェフダーの子供たちの中には今でも西暦では自分の生まれた年がはっきりしないというものがいる。
ドーラ・ベン・イェフダー・ウィットマン夫人には翻訳をしていただき、事実材料を提供していただいた。また、かつてはルーマニアのユダヤ人60万人の大ラビで、現在はスイス・ジュネーブの大ラビである、アレクサンデル・サフラン博士には、専門的な問題で助けていただいた。感謝申し上げる。
ヘムダ・ベン・イェフダーには、病院のベッドで話を聞かせてもらい一生懸命に記憶をたどってもらったことに礼をいいたいが、もう遅すぎる。彼女はニューヨークからエルサレムに戻ったあと、1951年の夏になくなった。ただ、最終原稿を読むのには間に合って、夫の人生を綴ったこの物語をよしとしてくれた。一つの言葉を復活させようとした夫の苦闘を描いたものが、最もいい形で出版されることを喜びながら亡くなった。
以上の説明と了承とともにお届けするのは、夢を追った男の物語である。
ロバート・セントジョン
内容説明
離散のユダヤ人が祖国を持つために、2000年前の母国語ヘブライ語の復活に1人で立ち向かったベン・イェフダー。それは人類史上初の試みだった。本書は同時に、イスラエル建国に身を投じたユダヤ人青年の純粋なシオニズム精神をよく描いている。
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み心は行なわれる
アレクサンドル皇帝してやられる
『ロビンソン・クルーソー』のおかげで
巻き毛二ふさと女の子2人
つのる痛み
改宗者第1号
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探偵、学者、魔術師、産婆
最後のチェス
2人はいっしょ
ルイ金貨1枚
スピノザのように
2つの誕生〔ほか〕
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- 和書
- 真宗小事典 (新装版)